歌われる方々には、コーラスマスクを着けて頂きました。
皆さん緊張感もなく(笑)撮影開始!セッティングの流れで自分は休憩もなくて、かつらをつける暇もなく(笑)始まってしまい、あっという間に終わりました。
この状況下、セッティングが出来て、ヴォーカル組が入り音合わせしてダンス組が合流して短時間で済ませました。
アールブリュット展の大きなスクリーンで流れるなんて、親分から誰も聞いていなかったので、おちゃらけの方も(支援者が)いたようです。聞いていなかったので皆さん緊張しなかったのかも知れませんね(笑)。
利恵さんはやはり本番に強くて、見事に舞っておられたとのことでした。自分の場所からは全く見えずに残念.......、。
たくちゃんはカメラマンさんに、早くしろよ!って.........。カメラマンさんすみませんでした.......。
「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」は、何も身体のことだけではない気がします。事業もそうかもしれませんね。
秋学期も近づいてきましたので、何となくレポートに利用できそうな言葉を探している自分を見ることが多くなりました(笑)。ソクラテスのドクサの吟味とアリストテレスの実践知は、自分が若い頃から心の奥にあるものですので、最近よく読む教科書に近い本には、アリストテレスの実践知が沢山出てきます。通学できるのか?不安ばかりですが、なるようにしかなりませんね......。読書とギターは毎日続けることができています。
〜しかし、ソクラテスは、なぜ、いきなり真理をとかずに、こんな方法を用いたのか。ソクラテス自身も、何が真理かを知らなかったからである!
彼が、他の人より優っていたのは、ただ、自分も真理を知らないということを知っていたということに尽きる。
この方法は、対話相手の思考を簡単には終わらせない。ソクラテスがもし真理を知っているならば、相手は、その真理に到達した時点で、思考を終結させることができるが、ソクラテス自身も真理を知らないとなると、ソクラテスの域に達しても、探究は終らない。
ソクラテスは、相手の思考の触媒であることに徹している。だから彼は、自分の問答法を産婆術に喩えた。結局、対話相手は自分で自分の誤りの自覚に達しているのだから、放置しておけば彼が自然と同じ結論に達したかといえば、そんなことは絶対にないはずだ。ソクラテスという不法侵入者=産婆が不可欠だったのである。
とはいえ、ソクラテスな問答法においては――ソクラテスもその相手同様に真理を予め知っていないが――なお、真理が存在していることは前提である。
そこで、この問答法は、実は最初から潜在してはいたが、忘れられていた真理の「想起」という形式を取ることになる。想起が完了したときには、やはり思考は安住し、探究は終わりを迎える。〜