降ったりやんだりと、「まっすぐには生きてこれなかった」歌人の心に残り続けた戦争と、【むしろ、逆に、しばしば、自由なはずの研究は、権威に拘束された探究よりもはるかに浅薄な命題しか導き出せない。】
毎日毎日、雨が降ったり止んだり……。この地域はまだ大きな被害は出ていませんが、いつ大きな被害が出てもおかしくないですね。コロナウィルス感染拡大もあるので、皆さん本当に神経を擦り減らす毎日ですね………。
そのせいか?下記に目が留まりました。
『あたためしミルクがあましいづくにか最後の朝餉食む人もゐむ』
(初出:昭和44年)は、この状況下、胸に響きます.....。
下記は自分にとって、この本の1つのクライマックスでした。
フロイトのような天才の肩に乗らない手はないのでは?
〜こうしたことは、啓蒙主義の観点からするとたいへんよろしくない状況である。マルクスのテクストに縛られずに、自由に資本主義のメカニズムを分析すべきである。
フロイトのテクストから自由に、人間の心理の様態を実証的に研究すべきである。ソシュールの講義に執着せずに、虚心に言語の実相を調べるべきである。これが啓蒙主義の推奨することであるし、実際に、そのような研究もたくさんなされてきた。
ところが、である。こうした自由な探究は、必ずしも、深く実り豊かな結果をもたらさないのだ。むしろ、逆に、しばしば、自由なはずの研究は、権威に拘束された探究よりもはるかに浅薄な命題しか導き出せない。
たとえば、フロイトのテクストを反証可能な仮説の一つとしか見なさないような、実証主義的な心理学は、フロイトに教条主義的に拘泥する研究よりもはるかに貧困なことしか主張していない。
この点を納得するには、フロイトのテクストに執着したジャック・ラカンが、人間についていかに深い発見をしてきたかを思い起こすだけで十分だ(ついでに述べておけば、今ではラカンのテクストがフロイトに並ぶ権威になっている。パウロの書簡がキリストの福音に匹敵する権威をもったのと同じ関係がここにはある)。〜