うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

弦を張替えましたと、新型コロナワクチンの臨床試験に学ぶ、データを正しく読む方法と、【文化資本】

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 J-45は10月からテレキャスターは覚えてないくらい弦を張替えていませんでした! 今日やっと張替えました!

 フレットが大分凹んでいました。12フレットまでの1弦と2弦のところがひどいですね。6弦5弦4弦は、ベース音を弾くことが多く、開放弦を使うことが多い証左ですね(笑)。

 

 コロナが世界的にエラいことになって来ました……。

 終息なんて来るのでしょうか? 与党も野党もまずはコロナについて議論するべきですね! でも、国会が再開すれば、足の引っ張り合いしかしないかも?と思うのは、自分だけでしょうか?

 既にコロナが目の前に来ている感じがします。祈るしか、予防するしか自分にはありません。

 

 少し前の記事ですが、興味深かったのでアップさせて頂きました。

 〜そこで、この臨床試験の結果は、ワクチンの有効性がWHOの基準である50%を上回っているという強い自信を持つことができる。人々は「ビッグ」に思えるデータに強い印象を受ける半面、「スモール」なデータの価値を過小評価しがちだ。〜

 〜ただし、統計学的数式だけで、すべての問題が解決するわけではない。最終的には、人間が判断を下さなくてはならない。〜

 〜広告キャンペーンを行わない状態での購入率が1/1000だとしよう。この場合、広告の効果により購入率が50%上昇したとすれば、広告を見なかった人が10人購入し、広告を見た人が15人購入したことを意味する。サンプルの規模がこの程度にとどまっていては、広告キャンペーンが売上げに影響を及ぼしたと結論づけるのに十分とは言えない。このように確率の低い出来事に関して調べる時、「ビッグ」に見えるデータは、しばしば見かけほどは「ビッグ」でない。〜

 〜ビジネスとは、つまるところ社会科学だ。そして社会科学とは、すべてきれいに説明がつくものではない。その点を受け入れよう。今度、何かの推計値を示された時は、データの細かさとデータの質の高さを混同しないよう気をつけたほうがよい。それよりも、点推定の信頼性を正しく認識するために範囲(レンジ)で見たほうがよい。ワクチンの有効性が70~95%の範囲の間、ブランドの価値が200億~700億ドルの範囲の間だとわかるほうが、検討しているテーマについて正しく理解できる。〜

結論 データは、人間の直感につきまとうバイアスの弊害を和らげる解毒剤のように言われることが多い。しかし、データを意思決定の手段として有効に活用するためには、みずからの直感を知的に制御しなくてはならない。本稿では、新型コロナウイルス感染症のワクチン臨床試験をめぐる最近のニュースから、データに関する直感を磨きたい経営者にとって有益な3つの教訓を引き出してみた。ビッグデータに警戒すること。詳細な数値データに警戒すること。そして、「後づけ」での解釈に警戒すること。この3つを肝に銘じよう。

 

  昨日の続きです。文化資本は有名ですね。下記を読ませて頂いていたら、避けていたわけではないのですが、ユングをもう少し読まないといけないのかな?と、何の脈絡もなく思ってしまいました。元型でしょうか?

コモンズかな?

 今はR.ジラールの暴力論を彷彿とさせるような事態になってしまっていますが、キーツのいうネガティブケイパビリティで、乗り越えないといけないのでしょうか?頭が自動的に色々なことを考えてしまっています。自分には文化資本はないくせに(笑)。

卓越と共有
 このような、フラットランドの社会に特化して、そこでの卓越を可視化したのが、ブルデューの「文化資本」である。

 化資本には、わかりやすい物品、学歴、教育資格、免状などのほか、身体化・慣習化した「ハビトゥス」がある。

 続された文化資本が、経済資本や社会関係資本とあいまって、社会での区別立て=卓越を維持する装置となることを、おもにフランス社会を材料に執拗に暴き、皆が思っていたことをうまく言い当てた『ディスタンクシオン』は、大成功をおさめた(Bourdieu,1979/1990)。

 化資本という既得権益を占有する利益集団は、「卓越」を維持するための有形無形の装置をもっているが、労力が最小化されているとはいえ、その保守管理にはコストがかかる。卓越とは、定義上、人と人を区別するものであり、卓越者はいつか没落する。

 撃から防るべきものがあるうちは、安らぎは、もしあったとしても、束の間のものである。天変地異や紛争、疫病によって崩れるかもしれない世界に、安らぎはない。卓越=区別立てを超えて、「私(たち)」という殻が破れ「今ここ」という時空が破れ、万人共有の基盤に降りていくとき、あるいは世界の先端から踏み出すとき、神秘家たちが証言してきたような、ユニバーサルな安らかさに溶け込んでいく。

 点文化の一部は、ウィルバーの言う垂直的な変容をもたらすことで、すべての人に無条件に開かれた、誰も拒まれることない、ユニバーサルな癒しにつながる。

 点文化は、上昇や卓越、その維持や増幅のポリティックスの資本ともなる一方、卓越の危うさと儚さを暴き出して、驕り高ぶりを解毒する成分を含んでいる。したがって頂点のなかの頂点においては、自ら卓越を踏み出すものでもある。

 くに、禅の影響を強く受けた日本の頂点文化において、弓道の体験的反省にみたように、この踏み出しが顕著である。

 

 

 下記は再掲です。

市場経済と調整原理
新古典派レギュラシオン学派の比較を中心
佐々木 崇暉よりhttps://oshika.u-shizuoka-ken.ac.jp/media/10_07.pdf

 アグリエッタの、このような論理はR.ジラールの暴力論に依拠している。ジラールによれば、あらゆる社会制度の発生の起源には人間の欲望の暴力がある。この暴力を厄払いし、鎮め、規制するために聖なるものが制度として打ち立てられるのである。では、暴力はなぜ発生するのであろうか。それは、人間欲望の模倣的性質から生じる。つまり、欲望とは自立的に存在しているのではなく、つねに他者からの借り物であり、第三者により媒介されている。それゆえ、ある主体にとって他者の欲望は模倣の対象であると同時に、競争相手=障害でもある。この相互に模倣しあう競争が自己と他者との区別を消し去り、暴力を感染させ無秩序と混沌を広める。
 これをジラールは「本質的暴力」とよび、それに対して、差異を生み、秩序を打ち立てる暴力を「創始的暴力」と呼ぶ。ある社会が本質的暴力により敵対や無秩序が蔓延したとき、個々に分散した暴力をただ一人の犠牲者に集中させ、「満場一致の暴力」によって差異を産出し、社会の秩序を回復させる。それ故、社会的諸制度は欲望の暴力を規制し、秩序を創り出すと同時に、暴力を伝導してゆく回路でもあるため、コンフリクトが激化すると諸制度そのものを変えざるを得なくなるのである。つまり、制度による調整そのものが一時的であり、可変的である27)

アグリエッタの、このような社会制度の発生の論理は、明らかに構造主義への批判を意味している。構造主義新古典派とは異なって社会を実体に還元しない。構造主義によれば、社会とは実体ではなく、言語として構造化されたシステムであり、規則、規範といった差異化のシステムから成立している。しかし、構造主義は、この構造的統一を所与のものとみなす。これに対し、アグリエッタは差異の発生の過程を捉え、模倣競争による差異の消滅と「満場一致の暴力」による差異の産出という「制度の両義性」概念によって、差異化の論理を発生論の視点から捉え返したのである。