今日は、周囲が休みをくれましたが、勤怠をしないといけなかったので、あっちに行ったり、こっちに来たり(笑)。ついでに例年の遊びをしてきました。真ん中に大きな椿を入れたかったのですが、落ちていないかったので(笑)、諦めました。
昨日の2冊を読み終えたら、古い記事と遭遇........。これから本を購入する時は、ネットで著者を調べてからにします(笑)。でも、勉強になりました。ラストワンマイル(ラストマイル)の学習用に買った、物流ビジネス最前線も読み終えましたので、
下記の2冊を並行読みします(笑)。
これだけ出てしまっていたら、仕方がありませんね........。近くで感染者が出ても周囲はまだまだ他人事です。差別ではなくて、人様にうつすのも嫌なので、なるべく自分達は感染しないように最大限の注意を払っています。それでも感染したら仕方がないなと後悔しないようにしています。
手の倫理から離れて見ました。
無理やり切り取った感がありますが、『しかし人間心理を知り尽くした達意の臨床家は、それを「癒し」とは呼ばないだろう。』は、自分達の現場でも、本当の支援と慣れだけで出来ている支援の違いが分からないということにも直結します。慣れだけで相手を抑圧しているとは気づかずに(これがなんと多いか......)、良かれと、その時のその方の状況や表情を見ないで、機械的にやってしまうことを慣れだけでやっていると、自分は定義しています。それは相手さんに諦めを植え付けてしまうので、その諦めがスムーズに支援できていると錯覚してしまうと言う怖さが付きまといます.......。
日本の頂点文化と癒し
津城寛文
頂点文化における上昇と下降
〜「現実」は、あらゆるものが水平的に横取りあるいは交換され、変換・翻訳される世界であって、垂直的に変容する契機を欠いている。ウィルバーはそれを、「フラットランド」と呼ぶ(Wiber,2000)。
昇華は、フラットランドでの一種の成功をもたらしはする。富、地位、権力など、何らかの「卓越」に連なること、さらにはそこでの階段を登ることで、不安や不調は抑圧され、潜在化し、当面の間は忘却される。
しかし人間心理を知り尽くした達意の臨床家は、それを「癒し」とは呼ばないだろう。