うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

秋ですね!と、新型コロナ【国内感染】1739人 3日連続で最多更新(14日23時)と、【分析医は、自分の一部を“純粋知識の対象the subject of pure knnwledge”(Schopenhauer)とせざるを得ない。】と、カント『純粋理性批判』序論

 

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 秋になり、いろんな景色・風景が鮮明に見えてきましたね!

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 金曜日の散歩でも、きれいな風景の中、すがすがしく行うことが出来ました!

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 山や野には、赤い実も目立ち、お地蔵さんにお供えするために、ひとつ頂いてきました。

 

 大学院の秋学期はどうなるのでしょうか?自分は対面授業を先延ばしにして、1.5期生(笑)となり、2期生の方々と対面は行う予定ですが、春学期にもまだこのような状況が続いているのなら、退学も考えないといけないかも知れませんね......。

 

 毎回、現場での支援のありようを考えさせられる箇所で、非常に勉強になります。特に『それは分析医が自分の個人的願望や不安から自由であり、患者を、“健康”に導こうとしたり、ましてや行動を変えようなどと焦ることなく、ただただ患者がそれまで拒絶していた患者自身を体験し、認識できるように導くだけの人でなければならない。』は、言いえていますね!


2.精神分析技法の古典と現代
患者と提供された材料に対する
分析医の内的基本態度(あるいは姿勢)

 

 〜析医は、自分の一部を“純粋知識の対象the  subject  of  pure  knnwledge
”(Schopenhauer)とせざるを得ない。

  れは分析医が自分の個人的願望や不安から自由であり、患者を、“健康”に導こうとしたり、ましてや行動を変えようなどと焦ることなく、ただただ患者がそれまで拒絶していた患者自身を体験し、認識できるように導くだけの人でなければならない。

 方、分析医のそうした野心には主観的側面よりも“客観的な側面”(患者側)がさらに大きく作用していることが認められる。それは、客体すなわち患者が分析医にかかわってくることによって、分析医の野心が一層かきたてられるのである。〜

 

http://www.phenomenology-japan.com/kannkaijr.htm

下記は、上記からの引用です。下記が理解できていないと、上記を理解できない気が(特に自分がw)したので、引用させていただきました。

カント『純粋理性批判』序論

(第二版)



Ⅰ 純粋な知識と経験による知識の違い


 我々のあらゆる知識が経験から始まることは疑いがない。なぜなら、我々の認識能力は、対象となるものに出会わないで、どうして働き出すだろうか。対象が我々の感覚に働きかけて、一方でそのイメージを作らせ、一方で知性の活動を喚起してその様々なイメージを比べさせたり、組み合わさせたり、分離させたりして、その結果、感覚の印象から来た生の素材を知識に作り変えるのである。この知識こそは経験と呼ばれるものである。

 したがって、時間的な順序で考える限りは、経験に先立つ知識などあり得ないことになる。つまり、経験によって全ての知識は始まるのである。しかし、全ての知識が経験によって始まるといっても、我々の全ての知識が経験の中から生まれてくるわけではない。

 なぜなら、我々の経験による知識は、外から受け取る印象と、(その感覚的印象によって喚起された)我々の認識能力がもともと自分自身で用意しているものが合わさって、はじめて生まれてくるものである可能性が高いのである。

 この我々の認識能力が用意しているものと元の素材との違いは、そう簡単には見分けられず、そこに注目してその違いが分かるようになるには長年の訓練が必要だろう。

 これが本当にそうなのかはよく調べてみないと分からないし、とても簡単に答えられないことである。いったい、経験にも感覚的印象にも依存しないような知識が存在するのだろうか。そのような知識は、経験によって後天的に生まれた知識である経験的知識とは区別して、先天的知識と呼ばれている。

 しかし、先天的知識というだけでは、我々の問題が意味することを充分正確に表しているとは言えない。なぜなら、我々は経験から得た知識であっても、その時には直接経験せずに常識で考えて分かったことを、「そんなことははじめから分かっていた」と言いがちだからである。しかし、常識は経験から手に入れたものにすぎない。

 例えば、家の土台の下に穴をあけたために家が倒れた人がいると、そんなことはあらかじめ分かるはずだ、つまり、家が実際に倒れるという経験がなくても分かるはずだと言うだろう。しかし、その人が前もってそのことを知らなかった可能性はある。なぜなら、そのことを前もって知っているためには、少なくとも、物体には重さがあって、支えがなくなると落下するということを経験を通じて知っていなければならないからである。

 したがって、我々が以降において先天的知識と言う場合は、特定の経験に依存しない知識ということではなく、どんな経験にも依存しない知識を意味するものとする。その反対が経験的知識であり、経験を通じて後天的にしか手に入れることのできない知識を意味する。そして、先天的知識のうちでも、経験に依存する要素が少しも混じっていないものを、純粋な知識と呼ぶことにする。

 たとえば、「あらゆる変化には原因がある」という命題は、先天的ではあるが純粋ではない。なぜなら、この命題の中の「変化」という概念は経験によらなければ手に入らないからである。