うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

5時の月と5時の風景と、本物のリベラルアーツを日本人は知らないと、【この「呼吸と一つになる」という練習において、言葉や考えは、練習の妨げになるだけです。】

 

 

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 今日は早番で、2時間前に起き、ルーチンの読書をしに、近くのコンビニの駐車場で、コーヒーを飲みながら過ごしていたら、5時の目覚ましがなり(笑)、外を見たらお月さんが出ていたので思わず(笑)、写してしまいました。きれいでした。

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 現場に近づくにつれ、空が明るくなってきて、また違う空になったのでまた写してしまいました。

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  もっと近くなるとまたまた素敵な感じに(笑)。信号待ちで写していたら、青に!

世間様は、連休でしたので全く車が走っていませんでした!得した気分で現場入り出来ました!

 

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  職員さんが、マスクを作ってくれました!冬用に良いですね!ありがとうございました!

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 今日は、女子もすろーじゃむの湯に行きました!犬さんは、暑いのか?かまどの中に入っていました。残りの3匹の赤ちゃんも、かまどの中とのこと。涼しいのでしょうか?今日も暑かったですね!

 

 下記は先日ネットサーフィンで出会ったものですが、心理学や経済学は、日本と違って理系に分類されている。は、少し驚きました。

心理学科が文学部にあるのは異常

たとえば日本では、大学に入るとき、大学そのものではなく、志望大学の学部ごとに入学試験を受けなければならない。また、その学部には、大ざっぱに「文系」「理系」の区別があり、心理学や経済学は一般的に「文系」と言われている。

ところが、アメリカの大学は、大学そのものに出願して入学し、日本の学部にあたる専攻(メジャー)を決めるのは2年時(ソフォモア)を終えてからだ。また、心理学や経済学は、日本と違って理系に分類されている。

日本の大学には、たとえば文学部心理学科というものがある。しかし、欧米の学問体系からいくと、心理学科が文学部にあること自体が異常である。

でも、何でもかんでも欧米に習えと言うのは、個人的には嫌ですね......。記事が2013年に書かれたこともあるのでしょうか?でも、勉強させて頂きました。


 

 下記は、昨日の続きです。昨日読ませて頂いた部分です。中々興味深い個所でしたし、ちょっとだけ?なんとなく?現象学に入れた感じがしましたが(笑)、読み進めると、難しい言葉が沢山出てきて、ググりながら(笑)通読してみます。

第3章 先入観を「カッコ」に入れる
現象学的還元とは何か
「呼吸と一つになること」と現象学的還元
 の「ありのままの体験」に至る方法として、第2章の最後でご説明した「無我の境地」に至るための「呼吸と一つになる」という座禅の修行がよく知られています。そこでまず本章では、呼吸と一つになることで「無我の境地」で弓を引く「無心の弓」を実現したドイツ人哲学者、オイゲン・ヘリゲル(一八八四〜一九五五年)の話を引きながら、この座禅と現象学的還元の方法との比較を試みてみましょう。
 リゲルは一九ニ四年、東北大学に哲学の講師として招聘され、一九ニ九年にドイツに帰国するまで、阿波研造という「弓禅一致」を提唱する範士に弓を学び、帰国の際には、5段の免状を受けたとされます。その著書『弓と禅』には、ヘリゲルの「無心の弓」がどのように実現したのかという経過が、詳しく描かれています。
 こでヘリゲルは、弓聖と讃えられ、「弓禅一致」を主唱する阿波範士の指導のもと、「自分が呼吸しているのか、呼吸されているのか」わからなくなるほど、「呼吸と一つになる」という練習を繰り返します。
 禅においてそれは、自分の呼吸に集中するため、はじめに、吐く息と吸う息を一つとして、「ひとーつ、ふたーつ、みーつ」と数えていき、一〇まで数えたら、また「ひとーつ」に戻り、一〇まで数え、それを反復する「数息観」という方法で練習されます。それに慣れると数を数えることなく、自分の呼吸に付き添うように呼吸だけ集中し続け、呼吸と一つになる「随息観」という方法がとられるようになります。
 の練習を通してヘリゲルは、呼吸する自分が消え失せ、呼吸に呼吸されているような、呼吸と一つになる体験を重ねていきました。しかし、呼吸の練習だけに集中しているときには、呼吸と一つになることはそれほど難しくないとしても、弓を引くとき、呼吸と一つになったままで弓を引いて矢を放つことは、簡単には実現しません。
 いうのも、弓を引くには力が要るからです。そこで「もう張っていられない」あるいは「いつ放てばよいか」などの思いが浮かんだ瞬間、呼吸への集中は途切れてしまい、「無心の弓」は実現できません。
 かし、ヘリゲルは練習を重ねることで、最終的に範士の指南による「赤子の手のように、ザクロの実が弾けるように」自然に手が開き、無心の状態で矢が放たれる、いわば「無心の弓」が実現されたのでした。
 て、このヘリゲルにおける「無心の弓」の実現とそこに至るまでのプなるプロセスを、現象学な探求方法と比較したとき、明らかになることがあります。この「呼吸と一つになる」という練習において、言葉や考えは、練習の妨げになるだけです。
 リゲルが呼吸と一つになることで実践した座禅の修行において、第1章で説明した、哲学が依拠する「共通語」である概念と言語による説明は、禅の修行にとって障害物でしかないのです。