うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

宇沢弘文と、中国に制圧された香港を見殺しにする日本に、これから起きることと、【かりにこの比喩を用いて日本思想史を見ると、主旋律は圧倒的に大陸から来た、また明治以降はヨーロッパから来た外来思想です。けれどもそれがそのまま響かないで、低音部に執拗に繰り返される一定の音型によってモディファイされ、それとまざり合って響く。】

 

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  昨日、宇沢弘文先生の本が来ました!教科書で分からないことを、いろいろ調べると、いろいろなものと出会います。社会的共通資本は、今まさに皆さん読まないといけない気がするのは、自分だけでしょうか?

 

 〜社会的共通資本の具体的な構成は先験的あるいは論理的基準にしたがって決められるものではなく、そのときどきにおける自然的、歴史的、文化的、経済的、社会的、技術的諸要因に依存して決められる。社会的共通資本は、結局、分権的市場経済制度が円滑に機能し、実質的所得配分が安定的となるような制度的諸条件を求めるものであるといってもよい。教育、医療をはじめとして、重要な社会的共通資本が安定的に維持、管理され、そのサービスが社会正義に適ったかたちで国民の一人一人に供給されるような制度の実現を目指すことが、経済学者が直面する最大の課題であるといってよいであろう。

 

 最初の方は、本当のリベラルとは何か?が書かれているように自分には思えました。人の批判しかしない今のリベラルの方々にも、通読を強く奨めたい!

 

 やはり、モーリー・ロバートソンさんの文章には頷いてしまいます。 

 下記に丸山真男先生の長い引用がありますが、日本人は本当の日本人としての強みを活かせていないのでは?と思います。

news.yahoo.co.jp

 

 下記の丸山先生の箇所も、教科書を調べていてであったものです。執拗な低音が日常的に響いていて、それが外来の文化を支えたり、呑み込んだりを繰り返されて今の日本文化が出来て来たということでしょうか?

 日本は文化的には開かれているが、社会的には閉ざされているというのも、こんな前から言われていたのですね……。改めて自分の無知さを露呈してしまいました!

『日本文化のかくれた形』Ⅲ  丸山真男

 〜ころがこの古層という表現もやがてまた変えたのです。これも表現の問題ですからどうでもいいといえばいいのですけれども、やはりこういう用語はなるべく誤解が少ない方がいい。

 惑した末に辿りついた言葉は、音楽用語ですねこれは一九七五年にアメリカのプリンストン高等研究所にいるときに立ち入った説明をしました。ただこの用語自体は、一九七ニ年の「歴史意識の『古層』」なかにすでに使っているのです。バッソ・オスティナート(basso ostinato)がそれです。

 ういう音楽用語を束のは何かきざでいやなのですけれども、どうしても他に適当な言葉が思い当たらないのです。バッソ・オスティナートは英語でいえばオブスティネート・バスで、執拗に繰り返される低音音型という意味です。

 は、なぜ「古層」をそれに変えたかといいますと、日本ではマルクス主義の影響が非常に強いでしょう。そこで、現実に私の「歴史意識の『古層』」を読んだ人の反響をきいたかぎりでは「古層」をマルクス主義における「土台」のように見る人が少なくなかった。

 存知のようにマルクス主義では「土台」に対してイデオロギーとしての「上層建築」(上部構造)があります。(ついでに申し上げますが「下部構造」という言葉は、あとからできたもので、マルクス自身は「土台」という言葉を使っています。)もちろん「上層建築」が「土台」に逆作用することは容認します。

 れども、究極的には生産様式という「土台」によって国家をはじめとする法、政治制度、さらに諸観念形態が制約されるというのがマルクス主義の基本的な公式でしょう。するとちょうどシェーマが似ているために、「古層」というのが「土台」、つまり生産様式、広義には生産関係のウクラードに見えてくる。

 ころが、そういう意味は私の「古層」にはないわけです。さきほとも言ったとおり、具体的には断片としてしかとり出せないし、歴史的には外来の体系化された世界像と結合して現出するものですから、「土台」とは非常に違います。

 ころが「土台」としての「古層」によって、もろもろのイデオロギーが、「基本的に」あるいは「究極的に」制約されるーーと私が考えているかのように「歴史意識の『古層』」はとられたわけです。

 れではまずいと思って、「執拗に繰り返される低音」に変えたのです。「執拗に繰り返される低音」という意味は、音楽をやっている方なら知っておられるようにバッソ・コンティヌオ(basso continuo)とは違います。バロック音楽などにあるバッソ・コンティヌオは、上声部の旋律に対して和声の進行をバスが受け持つ。

 を見ますと、よく数字が♯や♭記号とともに低音部に書いてあります。特別な音型をしているわけではありません。

 れに対して、バッソ・オスティナートというのは、私も参考のために音楽辞典をひいて見たのですが、定訳がないようです。低音部に一定の旋律をもった楽句が執拗に登場して、上・中声部と一緒に響くのです。

 一つの音型なのですけど、必ずしも主旋律ではないのです。主旋律はヴァイオリンやフルートのような木管で上声部に奏せられても構わない。ただ、低音部にバッソ・オスティナートがあると、主旋律に和声がつくだけの場合とは、音楽の進行が違ってくる。

 りにこの比喩を用いて日本思想史を見ると、主旋律は圧倒的に大陸から来た、また明治以降はヨーロッパから来た外来思想です。けれどもそれがそのまま響かないで、低音部に執拗に繰り返される一定の音型によってモディファイされ、それとまざり合って響く。

 してその低音音型はオスティナートといわれるように執拗に繰り返し登場する。ゲネラル・バスのようにただ持続して低声部の和声をただ持続して低声部の和声をひいているのではない。

 る場合には国学の場合のように表面に隆起してメロディとしてはっきりききとれ、ある場合には異質の主旋律に押されて輪郭が定かでないほど「底に」もぐってしまう。

 のように執拗に繰り返される一つのパターン、ものの考え方、感じ方のパターンーーとして「日本的なもの」をとらえるということにゃっと落ち着きました。