先日、親分が送って来た写メの蓮です。しかし、今年は季節は確実に流れてはいるのでしょうが、ゆっくりと季節に触れることなく、淡々と日々が過ぎて行きますね……。
春より酷くなりましたが、周囲は変に慣れてしまったかのように、動きが鈍いので、心配になってきました。何らかの判断を迫られています。
結局、凄い数字になりましたね......。
通学も本当に無理そうですね.......。
MBAの勉強をしていて、下記のような本に出会うとは思いもよりませんでした。古い本ですが、内容は古さを感じさせません。テクノロジーは進んでも、人間はあまり進んでいない気もしました。
日本文化のかくれた形
フロイト・ユング・思想史―あとがきにかえて―
武田清子
1·フロイトの思想史への問題提起
〜私は、常日頃、フロイトの「人間モーセ」について、いいかえれば、ユダヤ民族の文化・思想についての執拗な再吟味に興味をもたせられている。彼の最後の著書『人間モーセと一神教』(Mases and Monotheism,Alfred A.Knopf,Inc.and Random House, Inc.,1939)は、特定民族の文化史、思想史の内包する問題を解明する方法(アプローチ)を創造的に探求した貴重な仕事だと私は考えている。〜
〜ユダヤ人であったフロイトは、ヨーロッパの反ユダヤ主義(アンティ・セミディズム)の社会的、政治的圧迫の中に身をさらしながら、ユダヤ人である意味を問いつめてゆくとき、モーセとは真実何であったか?を問いつめる。一つの文化的民族としてのユダヤ民族と、民族の指導者モーセと、倫理的一神教とが、どのような関係にあったのかの分析に、彼は、異常な関心をもっていた。モーセはエジプト人だったのではないか?一神教としてのモーセ教はその根源をユダヤではなく、エジプトに持つものではないか?多神教的エジプトもすでに倫理的、普遍的神の観念を強調する一神教が明らかに存在した。割礼もエジプトからユダヤにはいってきた風習だとフロイトはいう。そして、一つの大胆な仮説を立てる「モーセはユダヤ人ではなくて、異教徒エジプト人だったのではないか?モーセは人々が彼をユダヤ人にする必要のあったエジプト人だったのではないか?」とフロイトは考えるのである。異教徒としてのモーセのイメージ、それは、フロイトにとってアンティ・セミディズム(反ユダヤ人排斥)を防ぐ必死の、鋭い試みでもあった。
このような、かくれた動機、宗教的、思想的関心につき動かされてのことであるにせよ、世界に通念となっている考え方(たとえば、モーセはユダヤ人であり、一神教は多神教のエジプトにおいてではなく、ユダヤにおいてのみ生まれたのであり、モーセはユダヤ民族の父だという考え)をひっくり返すような、まったく異なった仮説を立て、それをフロイトは執拗に論証しようとする。フロイトのこうした方法は、一つの民族の信仰、文化、思想の特質の読み直し、読み破りに非常に興味深いものを示唆する。〜
〜ローマを訪ねたフロイトは、三週間のあいだ、毎日、ミケランジェロのモーセ像を訪ね、その前に立ち、凝視し、観察し、測定し、スケッチし、考えたと自ら書いている。「律法のくびき」をおしつける主人公であり、律法の創始者であり、ユダヤ教の正統性(orthodox y)の象徴としてのモーセとにらみあいをつづける。そして、フロイトは、モーセにそむく民衆(それは、フロイト自らでもある)への怒りを、行動にうつすことをせず、怒りをおさえ、大理石像の中に怒りを凍らせたモーセをそこに見出す。それは、伝統的モーセとは別の、人間的なもの以上の何ものかが新たに加わったモーセの発見であった。そして、フロイトは、現代ヨーロッパ諸国のユダヤ人たちを内的にきびしく縛る宗教的、思想的拘束(モーセの律法)から解放される道を見出すのである。〜