今日のうたたねと、みずほ佐藤会長が断言「銀行界は根こそぎ『変わる時代』に突入する」と、ユヴァル・ノア・ハラリと、【 「ガラス」を通してでは、向こう側にあるものを見ることはできても、感じ取ったり、経験することができない。】
2つ目のボタンの花が咲きました!2つ咲くと香りも濃厚になりました。
お弁当をもらうついでにドライブに行きましたが、車が多くびっくりしました。帰省されているのか?別の愛知県ナンバーとか、他県のナンバーが沢山でした........。
今日は、夜に大学院の講義があるので、配慮して頂いていたようでしたが、シフトを見ると誰が男子を入浴するのか?ということで(笑)結局、男子の入浴介助に入ることになったら、お弁当が半額なので、昨日予約したから、今日のお昼前に、もらってきて!って(笑)、もらいに行って、お昼を一緒に頂いてから、すろーじゃむに走りました。
やはりここは、皆さんにとって特別な場所ですね!浸かりたいだけ浸かれるのが、皆さんいいみたいです。
下記は、少し前に見させていただいた記事ですが、コロナ後はパラダイムシフトが起きてもおかしくないと思われます。
歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ の『サピエンス全史』や『21 Lessons』は、是非読ませて頂きたいと思いました。
時代についていくのが、大変な時代になってきましたね.......。本当に実力がなければ生き残れない時代になってしまっています。だから必要性を感じ、大学院で学ぶ決心をしたのもあります。通学できないと、こき使われるので(笑)、早くこの状況の収束を願います。
東畑先生の引用が、もう少しだけ続きます。
自己愛の本質を「見捨てられ」と「自己疎外」だとすれば、やはり相模原の痛ましい事件は、そこだけ見るとそうですが、自己愛が原初的なものに近いと考えるなら、投影をまともに受けて、うまく処理できなかったので、退行してしまって、原初的な行動化になってしまったのだと、個人的には思います。事件の分析がしたいわけではなく、同じ現場で働く人間として、なぜ?痛ましい事件が起こったのか?起こらないためには、どのような教育が必要なのか?を整理して、きちんとしたものにして提示できればと、思っているからです。
『 「ガラス」を通してでは、向こう側にあるものを見ることはできても、感じ取ったり、経験することができない。』は、見事な表現ですね。
5 疎外・ガラス・表面
~ユング派のK・アスパー(1991/2001)は、自己愛の本質を「見捨てられ」と「自己疎外」だと指摘し、そのありようを表現する重要なイメージとして「ガラス」を挙げている。
「ガラス」を通してでは、向こう側にあるものを見ることはできても、感じ取ったり、経験することができない。
こころの状態のメタファーとしてのガラスは、自分自身や世界をリアルなものとして、あるいはみずからの一部として経験できないことを表す」。~