朝は、やっぱりラジオ体操! CDプレーヤーで、既に2回されたとのことでしたが、運動不足解消のために、YouTubeでもやりました!
午前中、男子はドライブ、女子はお茶会!
午後から、男子はすろーじゃむの湯にいきました!
自分は休みでしたが(笑)、応援に入らせて頂きました。
大学院で使う本が来ました。一番上のは、1000ページ(笑)。コロナ禍が終わっても、果たして通用するのか? はじめての分野の本なので、丁寧に読ませて頂きます。理解できるでしょうか?
下記は、先日の続きのような記事です。具体的なことが書かれていないので、中身までは分かりませんが、自分が大学院で学びたいことのひとつでもあります。
今、読み返してみると、PCR検査のことも書かれていました。エイブリーが、肺炎球菌の2つの型で、感染する型としない型を見つけて、感染する型を潰して感染出来ないようにして、感染出来ない型と混ぜると、感染する型が生き返ると発見したことは、凄いとしか言いようがありませんが、それからまた、研究を進めて人類に貢献されたのも、やはり現場主義だったからではないでしょうか? どこの世界でも、現場を大事にされる方が、本当の意味での貢献者ですね! 福祉の世界もそうです。
生物と無生物のあいだ
福岡伸一
第3章 フォー・レター・ワード
研究の質感
〜そして結局、エイブリーが正しく、マスキーはまちがっていたのである。エイブリーを支えていたものは一体何だったのであろうか。
エイブリーがロックフェラー研究所のホスピタル棟の研究室で、肺炎球菌の形質転換実験に邁進していたのは一九四〇年代初頭から半ば、彼はすでに六十歳を越えていた。もちろん彼は研究室を主宰するプロフェッサーであり、複数のスタッフを擁していたが、彼は自ら試験管を振り、ガラスピペットを操作していた。研究室員はそんなプロフェッサーを、敬意を込めて“フェス”と呼んでいたという。
おそらく終始、エイブリーを支えていたものは、自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。DNA試料をここまで純化して、これをR型菌に与えると、確実にS型菌が現れる。このリアリティそのものが彼を支えていたのではなかったか。
別の言葉でいえば、研究の質感といってもよい。これは直感とかひらめきといったものとはまったく別の感覚である。往々にして、発見や発明か、ひらめきやセレンディピティによってもたらされるようないい方があるが、私はその言説に必ずしもく与(くみ)できない。むしろ直感は研究の現場ては負に作用する。
これはこうに違いない!という直感は、多くの場合、潜在的なバイアスや単純な図式の産物であり、それは自然界の本来のあり方とは離れていたり異なったりしている。形質転換物質についていえば、それは単純な構造しか持ちえないDNAであるはずがなく、複雑なタンパク質に違いないという思考こそが、直感の悪しき産物であったのだ。
あくまでコンタミネーションの可能性を保留しつつも、DNAこそが遺伝子の物質的本体であることを示そうとしたエイブリーの確信は、直感やひらめきではなく、最後まで実験台のそばにあった彼のリアリティに基づくものであったのだ。そう私には思える。その意味で、研究とはきわめて個人的な営みといえるのである。