うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

牡丹と、キャベツと、自転車と、使い捨てマスクの製造ライン動画と、【手短に言えば、内的対象とは自我の下位区分であって、強く対象表象に同一化しつつも、全体としての自我がもつ思考と知覚と感情の能力を維持しているものである。】

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 自宅の牡丹の展葉が始まりつつあります。牡丹が咲けば初夏ですね!

色々とありすぎますが、なんとかやり過ごしたいものです。

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 先日、送迎車を離れた駐車場まで取りに行ったら、近視なのでなんか絵になりそうなものがあるぞ!と近寄ったら、キャベツでした(笑)。でも、作品にしたいかも?です。

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 ファミマにはほぼ毎日、自転車が一杯です。こういう時に、即興でテレビ番組を作ったりできるマスコミ人がいないことが不幸ですね.......。TVで(インターネットTVなら即動けそうですが)オンラインゲームの大会をやるとかeスポーツを楽しめるようにするとか、スポンサーは、このような状態なら、政府や国、大企業がなるべきです。

 相撲を見ていても、無観客なら、マラソン増田明美さんのような方が出て、細かすぎる解説や紹介をすれば、子供も楽しめるのにな!と残念でなりません。音楽でもアドリブが出来るようになるまでには、大変な練習が必要なので、TVの制作側は、まだまだ閉鎖的で、未熟なのでしょうか?人様に本当に楽しんで頂くなら、今が腕の見せ所ではないでしょうか?不安を煽るより、きちんとした情報を発信したうえで、大人も子供も楽しめる番組作りを期待しています!

 

 マスクを作ってやれと(笑)、機械を調べていたら、下記に行きつきました。

maidonanews.jp

 

  今回を含めて、あと3回でオグデンからの引用が、取り合えず終わります。また何かあったときには、出てくるかもしれませんが。

自我のひとつの側面が分割-排除され、対象表象ときわめて強く同一化されるのである。』 

もともとは対象関係であったものが、体験のうえでは、分割-排除された自我の諸側面の一面についての自己表象と等価になるのである。

この観点から私が示唆したいのは、対象関係の内在化は必然的に自我をふたつに下位区分することをともなうと考えられる、ということである。

 

 今回の引用は、先日の引用(下記の緑字)のまとめというか、復習のように思いました。そう言えば、今読ませて頂いているスィーガルは、ヘレン・ケラーが出て来ていました。体験と意味づけは、対にならなければ、現実にはなりませんね。

(1)自我の自己-下部組織(すなわち、個人がそのなかでより十分に思考と感情を自分自身のものとして体験する自我の諸側面)


(2)自我の対象-下部組織(それをとおして、自我のある側面が対象と同一化することにもとづく様式。意味が生成される)の両者を含んでいる。

 超自我・自我・イド(エス)といっても、自我だけでこんなに深く考えなければいけないなら、死ぬまでに全てを理解することは無理そうですね......。取り合えず、現場でのことと、照らし合わせながら、利用できるようにしていくのも、自分たちの仕事なので、いいとこどりさせて頂こうと改めて思いました(笑)。

 偽りの自己が出来る過程のようにも読めましたが、まだまだ勉強不足は否めませんね......。

 象よりむしろ対象関係が内在化されるというフェアバンの洞察は、内的関係における自己-成分と対象-成分の両者を活動機関、「力動的構造」として考える道を拓いた。

  の自己-成分は自我の分割-排除された側面であると理解され、そのことが仕事、知覚、反応の能力を説明している。

 

 

 ~こで、病的な奇怪な対象の形成に関するビオンの理論を内的対象の形成一般に適用してみよう。

  ると内的対象を、自我の分割-排除された側面が対象の心的表象の「なかに投影された」ものである、と概念化することができる。つまり、自我のひとつの側面が分割-排除され、対象表象ときわめて強く同一化されるのである。

  の自我の下部組織自体、意味を生成する能力があるので、早期対象表象へのとしてはひとの一側面がその側面自体をどう考えるかについての変化をもたらす。

  もともとは対象関係であったものが、体験のうえでは、分割-排除された自我の諸側面の一面についての自己表象と等価になるのである。

  この観点から私が示唆したいのは、対象関係の内在化は必然的に自我をふたつに下位区分することをともなうと考えられる、ということである。

 のような二分割は、結果として自我のふたつの新しい下部組織の形成をもたらすであろう。一方は自己を対象に同一化したものである。この定式化は内的対象の力動的な性質を説明し、自我という概念との関係をはっきりさせるものである。

 短に言えば、内的対象とは自我の下位区分であって、強く対象表象に同一化しつつも、全体としての自我がもつ思考と知覚と感情の能力を維持しているものである。

 のように提案しても、フロイト超自我形成を記述したとき以上には、悪魔学の方向に進みはしないであろう。