先日、お薄を頂きに行った、池の原で見た茶花と、頂いた和菓子の寒椿です。
暖かく、季節感がないまま、年末年始を迎えるのでしょうか?
12月に入り、自分も周りもバタバタしています。バタバタしても事故のないように、細心の注意をはらって仕事をさせて頂いています。
下記は、先日少しだけ触れさせて頂いた、「キャンセル・カルチャー」についてのものです。少し話が逸脱するかも知れませんが、少し前に地元の方と話をしていたら、同級生が芸大を首席で卒業したのに、地元の市役所で、芸術関係の部署に配属されたのは、1年くらいで、直ぐに関係のない部署に回されたと言っていましたが、首席で卒業するくらいなら、なぜ?田舎の市役所に入るんだろう?って不思議に感じました。それだけ頑張れるなら、社会の中でも、自分をアピールすることくらい、大したことではないように思うのは、自分だけでしょうか?
前にアップさせて頂いたTEDで、貧困家庭で育って、苦労して来た人間にしたら、仕事での困難だって?そんなの任せとけというのがありましたが、自分も貧困家庭で育って、小学校六年生の時には、半ズボンが1つしかなく、帰宅したら継母が直ぐに洗って翌朝にまたそれを履いていく生活を送っていました(笑)。勿論、電話もなく、よくイジメられなかったなと、今思えば本当に不思議です。だから、自分のことは自分でやるのが当たり前です。政治的に偏っても、思想や宗教などにも興味が湧かないし、特に尊敬する?できる?人間もいません。まあ、そんな人間だけなら、面白くもないでしょうね(笑)。色んな人間がいるので、バランスがとれるのかも?と、少し前までは思っていましたが、昨今の偏り方は、自分の目には危うい感じがして来ました。1つの場面、言葉だけ切り取って、責めまくる。虐待の件も、あまりやり過ぎると、自分たちが支援させて頂いている、重度の方々の支援をしたいと思う人間もいなくなるだろうし、受け入れる施設も、世間の目を気にして断るしかなくなります。
21世紀は弱者の時代だと言われ、21世紀を迎えましたが、偏り過ぎた左側の方々のやりたい放題のように見えます。
下記はオグデンからです。少しずつ前に進みはじめています。
思考と感情は手で触れることのできる対象(妄想―分裂様式で作動している患者にとっては)ならば、支援者が手で触れることのできる対象になることが出来ればと思うのですが、上で述べた、重度の方々の支援は、その方の勢いと同じか、それ以上の勢いが必要なので、暴力や暴言を吐いていなくても、本当の現場を知らない方々は、平気で虐待という言葉を使うのでしょうね。
度が過ぎるのは勿論いけませんが、親が子を強く叱るだけで(そのようにしないといけない時は多々ありますが)虐待と言われるこの時代、重度の方々の行き先の確保が心配になります。
~おもに妄想-分裂様式で作動している患者にとって、思考と感情は、現れたり、消えたり、汚染したり、変形したり、破壊したり、救済したりする、手で触れることのできる対象だということである。
たとえば、妄想-分裂様式で作動している患者は、苦痛な感覚を追い払うために頭を振ることもあるだろう。
また、彼の思考を文字通り手紙に入れ込み、その思考を抱くべき人にその手紙を送りつけるかもしれない。
あるいは、自分の内部にある、自分の気を狂わせるものを見ることができるように、エックス線写真を要求することもある。~