うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

久保惣記念美術館と、【しかし、そうであったとしても、そのひとの在りようは、「病者」なのではなく「生活者」なのである。このことが根本になければならない。】

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 今日は、白柳先生の整体を受けたり、私用を済ませて、宿に向かっていたら、久保惣記念美術館との標識?が見えたので、その方向に向かってました。そう言えば、伊勢物語美術書を見ていると、所蔵名に久保惣記念美術館と書いていたのを思い出しました。見たかったお茶室は、先の大阪であった地震のために、見ることができないとのことでしたが、手前にあった、小さなお茶室の方が、利休のお茶室のようでした。奥の立派なお茶室の資料を見せて頂きましたが、書院みたいで、せっかく露地は寂が利いていて、丁寧に打ち水もなされていたので、小さなお茶室を拝見させて頂きたかったです。でも、故郷にこんな素晴らしい美術館があるのは、素直に嬉しいですね。明日は故郷の博物館さんに行き、フライヤー等の打ち合わせをさせて頂きます。フライヤー等が出来たら、この美術館にも置かせて頂けるのでしょうか?置かせて頂けたら嬉しいですね。

 

 用事の隙間に(笑)、中動態の世界を読ませて頂きましたが、やはり難しい……。でも、わからないなりに(笑)、少し吸収させて頂いているような気分にさせて頂いています(笑)。

 

 下記は、昨日に引き続き皆藤先生からです。

生活者というのは、福祉の現場でもしかりですね。きちんと生活が出来ているというのが、一番根底にあり、それがなくては、穏やかに過ごすことはできません。それは、障がいの有無関係なく、当たり前のことですが、日中ばかりがクローズアップされてしまいます。きちんと食事が摂れ、きちんと睡眠がとれ、きちんと清潔に保て、きちんと排泄があるという、ごくごく当たり前のことがあっての日中ですが、生活を支援させて頂いている人間が低く見られるのはなぜだか、分かりません。

皆藤先生の本を読ませて頂いていると、余計にそう思ってしまうのは、自分だけでしょうか?

 またまた出先からのアップなので、写真の調整がうまく出来ていませんが、帰宅し次第直しますね。

 

第2部 事例「考える葦」

第4章「考える葦」再考
はじめに
 ~心理療法がこれまで光を当ててきたのは、「症状」や「問題行動」というフィルターを通した人間理解である。それは「くらし」に光を当てるものではない。それは苦悩の要因の探照灯にすぎない。もちろん、ひとつの体系を成し、人間のこころの理解に大きく貢献してきたことは事実である。

 ただ、わたしという心理臨床家は、そこに欠落感を抱いてしまうのである。このことは、否定しようがなかった。わたしは、心理臨床を心理臨床的次元のみで理解することが息苦しかった。素朴に、心理臨床の場に訪れるひとは、ひととして生きる「生活者」であって、治療を施さねばならない「病者」にかぎっていない。そう感じるようになっていたのである。治療の必要性があるのならば病院やクリニックへの受診だろう。もちろん、心理臨床の場には、医療機関で処方された薬を服薬しているひともいる。

 しかし、そうであったとしても、そのひとの在りようは、「病者」なのではなく「生活者」なのである。このことが根本になければならない。そう考えるようになっていた。~