うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

渥美半島の先っぽにある物と、白柳先生のブログと、【ここで逆説的であるのは、抑うつ的な解決は、患者が親への同一化に訴える解決にたよらずに、親の権威に反抗できる強さを見出だすことができるようになったときに可能になる、ということである。】

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 生まれ故郷にはきちんとした美術館がないので、博物館で(立派な建物ですが)の展示になりますが、その会議が本日博物館で行われるようです。作品展と言っても、ミニギャラリーなので、そんなたいそうな物ではありませんが、学芸員さんが、自分とは逆で、出身が愛知県とのことで、苗字も最初に働かさせて頂いていた施設で一番支援させて頂いた方と同じなので、益々縁を感じました。作品の整理をしていたら渥美半島の先っぽの方にある農業倉庫の扉や、錆びて朽ち果てようとしている、ロードローラーの物が出て来ました。ガラホにしたので(笑)写りがより悪くなっています(笑)。

 博物館に繋げて下さったのは、西教寺の浅井住職のおかげですので、決まり次第直ぐに報告に行きたいと思っています。

 

 

 毎月1回2時間施術を受けに行っている、白柳先生がまた本を出されるようです。現場で本当に悪戦苦闘されて居られる方々の言葉には、本当に重みがありますが、世間一般の方々には、電話だけで耳触りの良い言葉を、さも自分に同一化しているかのように話す輩の方が支持率が高いのは看過できませんが、看過される方の方が多いのも事実ですね..........。口やパソコンだけなら誰でもネットで少し調べただけで、さも(笑)、しつこい(笑)、全て把握している様な事を言ったり、書いたりするのは小学生でもできますよね?(笑)

 自分は、京都時代のツケ(無理)が祟り(笑)、首と肩のコリが異常にひどくて、墓場まで持って行かないといけない覚悟でしたが、アレクサンダー・テクニーク(もう4年目に入りました)でこれは何とかなるのでは?と思えるようになり、神田橋先生の本から(実際には白柳先生が主の本)、白柳先生を知って、異常な張りを少しずつほぐしていってもらいながら、アレクサンダー・テクニークでそれを維持するというのが、今の自分にはベストです。先日、八塚先生が、アメリカでのパーキンソンのリハビリのひとつとしてのアクティビティに、アレクサンダーが使われている事例があると、京都で学会の発表会に参加されてきたと、個々にも書かせて頂いた記憶があります。自分のやっている事は、今の時流とは反対の事が多いですが、山下達郎さんが言われたように、結局は、アコースティックが生き残るのではないでしょうか?それは楽器の事だけではなくてですが。


 以下は、上にあるホームページの中のブログの一つです。勉強になるブログなので是非、お読みください。

 のぞみ整体院日記

 
座談会してきました
 先日、3人のお師匠さん方の末席を汚して、念願の座談会をしてきました。
 お集まりくださったのは精神科医神田橋條治先生と杉山登志郎先生と高宜良先生。錚々たる名医の方々に混じってなんでアンタが居るのだ、とお叱りを受けそうですが、『神田橋條治の精神科診察室』を作ったとき同様、大本の言い出しっぺが私ですので、今回もまた〈言い出しっぺ特権〉です。

 丸一日、話し続け・聞き続けで頭はへとへとにくたびれて、こんなてんこ盛りな座談会をあなた、うまくまとめられるのと皆さんにハラハラ心配されて(当然だ……)、もちろん私自身も大いに心配しつつテープ起こし・原稿作りに取り組んだわけですが、今日、めでたく皆さま方から〈よくがんばりました〉のお返事をちょうだいすることができました‼
 細部の詰めにはもう少し作業が必要ですが、原稿の構成が変更不要となれば、峠は越えたも同然です。いや~…、本当によかったです。肩の力が抜けました。

 この原稿が本になるのは来年の夏以降です。
 実際にお目にかけられるのは少し先になりますが、ゴールまでの作業を精一杯がんばりたいと思います。どうぞよろしく、ご期待ください!
 
 
 
 
  下記はまだスタイナーです。しつこいですが、現場ではやはりエディバルナ問題が沢山あるので、この辺りは少し集中させて頂きたいと思っています。
 中井久夫先生が何かに書かれていた、『医者が立派過ぎると、患者さんの存在がなくなる』という言葉が、下記を読ませて頂いてふと感じました。ウィニコットが言うように、簡単に子どもに主導権を渡してはいけないけれども、期待を全く失わせてもいけないというのは、そういう事なのか?とも思いました。

 

  ~ここで逆説的であるのは、抑うつ的な解決は、患者が親への同一化に訴える解決にたよらずに、親の権威に反抗できる強さを見出だすことができるようになったときに可能になる、ということである。

 親との同一化への誘惑に抗することができるようになると、こどもは大人と比較して自分が卑小であることに気づき、また排除されているという感覚を持ち、これに関わる不安に直面せざるを得ない。

 ここでこどもが得るのは現実との接触であり、これは苦痛であるが成長には決定的に重要である。苦痛であるのは、自分のおかれている状況はより憎しみと復讐願望が生まれているが、これが両親双方に向けられていることに気づかざるを得ないからである。

 母の日々は自分自身の権利に基づいて行動しているのであり、もはや原始的群族の所有物として奪い合うものとなっているわけでもなく、乳児的なエディプス的勝利の筋書きの共犯者でもない。

 母親は〈良さ〉と同時にフラストレーションの根源とみなされる。両方の性の乳児にとって、母親は、愛と憎しみの混合した苦痛な状態を惹き起こし、これが抑うつポジションを特徴づける。

 こどもの苦痛は、「裏切られた」という感覚に結びつくことが多いが、現実であれ、空想であれ、とくに母親がこどもの近親姦願望に共謀していた時期の後に生ずる。母親かま大人であり、父親と大人の関係にある、ということにこどもが気づくと、こどもに深い絶望感が生じる可能性がある。