久しぶりに自分の作品を展示させて頂ける場所を、生まれた地で見つけることができました。それも西教寺の浅井様のお陰です。
檀家さんの山口政博さんと言う、藁で書を書かれる方が使われたところとのことで、浅井様の紹介で決まりました。本当に感謝です。後は日にちを決めるだけです。
出先での更新なので、写真の大きさの調整がうまくできないので、帰宅してから直します。(笑)
キーツは、今まで読ませて頂いた本にもよく出てきて、何度か引用させて頂いたことがありますが、内容を引用させて頂いたことはありませんでした。よく読めば納得しますね。芸術家は訓練分析を受けなくても良いと言われる所以を見るように感じます。結局、ワークスルーというのは、福祉の現場でもそうですね。本当にワークスルーするのみです。
考察
~キーツと恥〔きまりの悪さ〕についての研究の中で、クリストファー・リックス(Ricks,C.1976)は、きまりの悪さと憤慨の間にこの種の反比例の関係があると主張している。彼の見解によると、
興味深いのは、憤慨はきまりの悪さと対峙しているということである。前者が噴出すると後者を駆り立てる。あたかも発砲に発砲で応じるようなものである。その結果よくあるのは、きまりの悪さを避ける方法として、自分を憤慨へと駆り立てることである。少し傷つけられたとき(例えば、つり銭の間違いなど、)これに対し公衆の注目をひき、ものごとを正当な状態に戻さなければならなくするために、ひとは憤慨する。少しばかりの憤慨が作為的にかきたてられる。ひとたび激しく憤慨に駆られると、もはやきまりの悪さに支配されることはないからである、(1976,p.3)
結局、私は感情の連鎖は、ワークスルーしていかなければならないものと考えるようになった。そして私が行動化しやすく、批判的で権威的な人物像となってしまうのは、長期にわたる内的対象関係の反復であると理解した。患者を不当に扱う対象との闘争は、分析セッションに繰り返し現れた。このため常に行き詰まりの感覚が作りだされたが、これを〈生き抜き、変容するlive through and modify〉考察は可能であったと思われる。確かに患者は、私が理想の対象からほどなく遠いことに気づいていた。こうして彼は「現実は失望と苦痛に満ちている」という事実に向き合わされたと思われる。~