うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

療育キャンプと、【視覚は、主体が対象に接近しすぎている場合には有効ではない。】

 

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 昨日は20時に豊橋着でしたので、軽く食事をして帰宅したら22時......。

今日アップになりました。立派なホテルでした!夕食も朝食もバイキングで、お寿司と刺身などが食べ放題でしたが、仕事なので、これでも遠慮しました。

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 夜のダンスも、朝のラジオ体操も皆さん元気ですね!

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朝食も一応、これでも遠慮しています......。

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 二日目は、海洋丸(第2)と

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 五箇山に行きました。五箇山だけ雨が降りました。

今年もステキな時間をいただけたこと、支援者として選んでいただいた方に感謝しています。

入浴介助は、今回はしなくてもいいのかな?と思っていたら(笑)、初対面の重度の自閉症の青年が何名か脱衣場や浴室で固まっておられたので、添乗員さんやお風呂を掃除されておられる方が、呼びに来られ自然と入浴介助に入りました。簡単にその方々を動かすことができるなら、自分みたいに毎日現場と勉強をしなくていいですよね?って思いました。こんなに大変なことしましたって(笑)皆さんの前でいえば、称賛されるのでしょうか?(笑)自分は名誉よりも欲しい物があるので、そんなことはどうでもいいですが、いつもキャンプに参加させて頂いて思うのは、同じ障がいをお持ちのお子さんがおられるのに、自分のお子さんには寛大でも、他人のお子さんにはそうでなかったりするのは(みなさんがみなさんそうではありませんが)、多様性を謳いながら、性同一性障害の方を少しでも違う方向で取り上げたら、侮辱している!って大声で叫ぶ方々を思い出します。多様性って色んな人・形があってもいいと認めることなら、それが嫌な方もあると言う事をも、認めることではないでしょうか?自分はアートや音楽に非常に興味がありますが、全くない方もおられるということも、認めます。自分の意見だけが正義だと、勘違いしたり、させてしまうような言動が多くなっていく社会に対して、懸念せざるを得ません。東畑先生の本を読ませて頂いたので、余計に(特にそれについては触れてはいませんが、考え方という意味で)そう思ったのかもしれません。精神を病まれた方が、精神分析を利用するのか?認知行動療法を利用するのか?また、その中でもどの流派を使うのか?誰に診てもらうのかで、その方の在り方や、病気の在り方が変ってしまうし、それがその時点で果たして良い事なのか?悪い事なのか?それがその方に一番合った方法なのか?その治療者がその方に一番合った方なのか?選択や運次第で未来が変わってしまう。自分たちの支援もそのようなことを念頭に入れて支援方法を考えているのか?歩きながらでも、走りながらでも考える事は継続して行きたいですね!

 入所施設が批判の対象になって、地域にと、グループホームが脚光を浴びていましたが、ここにきて入所施設の大事さが分かったって.....。現場の人間、ましてや、きちんとした入所施設やグループホームで働いた人間に言わせて頂いたら、形ではなくて、あり方ではないでしょうか?入所施設でも上がきちんとしていないと現場がきちんとしていても浮かばないし、グループホームでも然りで、きちんと支援しているところは形なんか関係ありません。どうやったらご家族にきちんと伝わるのでしょうか?

 

 

 下記は上記の事にも関係するかもしれませんね。

 ~視覚は、主体が対象に接近しすぎている場合には有効ではない。なぜなら対象は、距離をとって観察するときにのみ視界に入るからである。これは〈見られる〉ときにも同様である。

 なぜなら〈こころの退避所〉から外に出て、対象と距離を取ろうとするときこそ、敵意に満ちた〈視線〉が予想される事態が生ずるからである。

 〈見られること〉が、〈見ること〉ことと同様に不安を惹き起こし、両者によって自己愛的防衛は強化される〈視線〉は自己愛的関係を再び築きなおすためにも利用されるので、この状況は複雑になる。

 見ることは、対象に入り込んでそこに避難し、そして再び対象を支配し、その性質を獲得する手段となる。