今日の散歩と、フラフープと、【文化を見る方法】
今日は暑かったですね!としちゃんとの散歩は、午前・午後とも、蔵王山の展望台に行きました。涼しくて、音楽が静かに流れていて、重宝します!
夕食後、みなさんフラフープに挑戦されていましたが、出来たのは親分だけでした(笑)。難しいですね.......。
今日も東畑先生の一節をお借りしましたが、G20が大阪でやっているので、タイムリーかな?と思ったのもあります。イタリアで作品展をさせて頂いたときに、現地の日本人が、ディスコの盛り上がる時間で、その国の文化度が分かるって言っていました(笑)。そんなわけないですが、因みに、ウル覚えだと、フランスが0時、イタリアが1時、スペインが2時って言われていたような、違うような(笑)。フィレンツェのディスコで一晩踊った(つもりw)のも、もう遥か昔のように感じます。皆さんウエルカムで、イタリア万歳!日本万歳!合戦した覚えがあります.......。若気の何とかですね......。
下記は、本当にそう思いますし、いくら立派な理論でも、その方に合わなければ使えないし、似たようなケースを探して、自分なりに現場に照らし合わせながら、構築して行くしかないですね。
文化を見る方法
「日本のありふれた心理療法」を理解するために、本書は文化がいかに心理療法を変形するのかを見る。しかし、本書は従来の「日本の心理療法」論とは一線を画す。
つまりそういう土居健郎・河合隼雄・北山修などに代表されるように、日本人の心性についての心理学理論を構築し、それに基づいて「日本の心理療法」のモデルを提示するという戦略を、本書は取らない。
理由は二つある。ひとつは、すでに述べたように、卓越した臨床家たちによって構築された「日本の心理療法」モデルもまた、現場レベルでさらなる妥協を強いられることにある。日本人向けにしつらえられたはずの心理療法ですら、すべての臨床現場で実践可能なわけではないのだ。
もうひとつは、「日本の」という国単位の文化を語る方法が、今や失効しようとしていることだ。経済格差が教育格差をもたらし、文化資本や社会資本を左右する現在、「日本文化」はもはやひとくくりには語れないほどに、分断され、差異化されている。同様に、対比される「欧米」もまた均質性を失っている。ロンドンの地下鉄では、インド系女性がFacebookで「いいね」と押している横で、アフリカ系男性がビジネス紙を読んでいて、その前にはアングロサクソンの女性が立ちつくしている。そういう地下鉄の運営方針を決めているのはムスリムの市長だ。~