うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ぶどうと、今日の散歩と、【こころの迫害体験は身体的攻撃よりもさらに恐れられることがある。】

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 昨日は、個人的にいくつかミスがあり、主任さんの機転で難を逃れる事が出来、助かりました!すろーじゃむに換気と清掃に行ったら、去年の猛暑で枯れてしまったと思っていたブドウに小さな実が2つなっていてびっくりしました!

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 遅番でしたが、イレギュラーな勤務になってしまっていたのが、ミスの原因になったと思われるので、勤務時間外の送迎はなくしたほうがミスがなくなると思われます。

 午前中は、としちゃんと、熱中症警報が出ていたので、涼しい蔵王山の展望台で沢山歩きました。心身ともに無理なく活動できるのが理想ですね。

 


 下記は、前後がないと理解が難しいし、フロイトシュレーバーを読んでいないと理解が難しいかもしれませんが、敢て引用してみました。行為は何をしたかではなく、どうなされたかである、と言われますが、支援も子育ても正しくそうだと思われます。効果的にその方に感じて頂くためには、どうなされたか、という中に、そのタイミングやその方に一番適した(合った)やりかたでなされなければなりません。



  シュレーバーはこの最悪の苦痛な体験を「魂の殺害」と呼んだ。このことばは明確に定義されていないが、人間が体験しうる中で最も深刻な屈辱と乱暴な扱いmisuseを伴っていると思われる。この体験において企てられているのは、「自分に価値がある」という感覚を損ない、「他者の益になっている」というアイデンティティのまさに根幹を破壊することである。ここに屈辱体験の特徴が描写されており、その中には常に罰を科する人格をもった審判的主体a personal agency(審級)が存在する。このような出来事は〈きまりの悪さ〉や〈恥〉の体験においても生ずる可能性はあるが、必ずしもそうとは限らない。苦痛が偶然ではなく、罰として生じた時には、その結果として生じる迫害感ははるかに耐えがたいものとなる。そのとき与えられる受難は、ただ苦痛や危険と向き合うだけでなく、自分を傷つけ、最終的には破壊しようとする意図で加えられた受難となる。こころの迫害体験は身体的攻撃よりもさらに恐れられることがある。