本が来た!と、三日月と、【子どもがもっと統合されていき、同一の人物に対して愛と憎しみ、すなわちアンビヴァレンスを感じることができるようになるにつれて、気遣いと罪悪感、修復したいという願望の始まりが見られる。】
今日、本が来ました!前々から読みたかった本ですが、名古屋や大阪に行く機会があるので、電車やバスの中でオグデンが読み終わりそうなので(笑)、準備しました。
今日は、中野信子さんの『サイコパス』を待ち時間に読みました。ベストセラーになっているのが、理解できました。オグデンも少しだけ読み進めました。受診などがあるのに、シフトが入っていたので(基本的に木曜日は休みを頂いているので)、びっくりしましたが(笑)、早番の朝だけやって、管理者さんが代わってくれ助かりましたが、慌てて豊橋の病院に走りました。
夜、外出先で綺麗な三日月だったので、またまた、懲りずに写しましたが(笑)、ぼやけました......。まあ、雰囲気だけと言う事で!夜は私的な用事でまた、豊橋まで行き、今帰宅しました。
バリントの言う、基底欠損水準と言うのは、下記のアンビバレンスを避けるために、防衛を使って、プレエディバルな状態にすら、持って行こうとしない状態なのでしょうか?アンビバレンスを感じることが出来るようになって、大人の言葉が理解できるようになるのでしょうか?この辺りが今の自分、独学でやろうとしている限界なのでしょうか?言い訳せずに(笑)、もう少し頑張ってみます。
~ここで正常な発達の問題に戻ろう。乳幼児もしくは年少の子どもが発達するにつれて、統合が次第に増加してくるのを私たちは観察する。スプリッティングや投影は少なくなり、以前より自分の感情と接種したままでいられるようになる。自分自身が全体としての人間であり、対象が全体としての真の人間であることに気づくようになる。子どもがもっと統合されていき、同一の人物に対して愛と憎しみ、すなわちアンビヴァレンスを感じることができるようになるにつれて、気遣いと罪悪感、修復したいという願望の始まりが見られる。これは当然、生と死する本能に関連するアンビヴァレンスの議論したい中でフロイトが「罪悪感の運命的な不可避」として語った事柄とつながる(1930)。罪悪感や分離、喪失の感覚をもたらすそのような発達は、必然的に痛みをもたらす。そして新しい防衛が打ち立てられるか、更なるスプリッティングと投影同一視が動員されるであろうが、ここで対象とのより現実的な関係の可能性と他の対象間の相互作用に対する、より現実的な関係の可能性がいまやあらわれてくる。それがエディプス・コンプレックスである。~