うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

紹鷗と「わび茶」と、 【しかし、ここで短い間ではあるが、自我の一部は外側に立つことができ、彼自身の内側で何が起こっているかを調べる手助けが実際にできる。】

 

 出生地を8歳前に出てしまったので、自分のアイデンティに確信が持てず、人生の終盤に向けて、刻々と時間が過ぎてしまっているのに気付き、堺市(大阪で一番長く過ごした場所)で、整体を受ける事になり、少し深く掘り下げて調べるようになりました。自分の生い立ちを探るにあたって、安倍晴明や下記の武野紹鷗(こちらの鷗が正解です)が頻繁に出て来ます。身分差別が酷かった時代でも、才覚や、努力でそれなりの地位を得た方々が沢山おられることは、非常に勇気を与えてくれます。

 

紹鴎と「わび茶」
現代の「わび茶」の概念を決定付けている『南方録』では、

みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮
という藤原定家の歌を紹鴎の「わび」の心であるとしている。南方録の資料的価値は低いが、最初に和歌の書跡を茶席に取り入れたのは紹鴎である。

山上宗二記』においては、紹鴎が目指した茶の湯の境地とは

枯れかじけ寒かれ
であったとされる。これは連歌師である心敬の言葉から引いたものである。

 

 下記のサイトで上記の事を詳しく説明してくれています。上記はウィキペディアからの引用です。

 『「枯れかじけ寒かれ」という言葉のかじけは、やつれる、生気を失う、かじかむ、やせ衰えるという意味の古語である。自分が枯れて、やつれて、生気を失い、やせ衰えてかじかんでいる。しかしそれは実際にそうであるということではなく、精神の自由さ、はつらつさ、独立性は決して失わない。そうした状況を「心象風景」として胸に押さえておくだけで、それはいわば彼らの世俗的権勢や武力に対する自分の心の「誇り」ともいうべきものなのである。ここでは心の、精神の独立というものとしてとらえるべきであろう。 』は、自分が考える、支援のゴールの精神的な自立と言うのにも繋がっている気がしました。

 

 

 下記は、ワークスルーする意味を記述してくれています。心的外傷にならない程度に、無理なく、徐々に反復強迫を繰り返すことによって、ワークスルーしていくしか、本当の変化が訪れないのかも知れませんね。

 

  彼は、通常分裂排除している自分自身の感情や自己の一部と接触してみようと、ちょっとそちらに向かって足を踏み出してみるが、不安に直面して再び退却する。しかし、ここで短い間ではあるが、自我の一部は外側に立つことができ、彼自身の内側で何が起こっているかを調べる手助けが実際にできる。たとえ、それがすぐに再び失われるものであろうとも、自分の衝動についての患者自身の洞察に対して一瞬一瞬責任を取れる自我の一部を分析家は探し出すべきだということが、心的変化にとって、また分析の終結について考慮するに当たって、人格のこの部分の強化は不可欠であると私は確信する。しかし、それは分析家や分析過程に対する健全で心地よい同一化に基づいていると考える。それはもっとマゾヒスティックな根をもつであろう常に自意識の強い自問とは全く異なり、自己と他人について理論的分析的考えをもちたいという恒常的な欲求とも全く異なる。このような恒常的な欲求は、自己愛的で万能的態度と結び付いている。