うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、【自己−同時性とは、四肢、体幹、顔などといった体の各部分が瞬時も狂わず、シンクロナイズして動く傾向にあるーー事実動かなければならないーという事実、つまり、1つの筋肉群における動きの開始、中止、方向転換、速度変換が、他の筋肉群のそれとシンクロナイズするということを意味しています。】


 今日は、夜勤で日中に散歩が行けませんでした.....。残念です!
夜勤も楽しいですが(笑)、金曜日の散歩は、皆さん狙っているので、油断も隙もありません(笑)。
 滝頭でしょうか?12月も中旬に入ろうとしているのに、紅葉ですね!やっと平年並み近くになって来ましたが、温かいですね!
でも、インフルエンザが流行り出しているので、皆さんもお気を付けくださる様、お願い致します。



 今日は、何故だか?人員配置が沢山.......。そんなに大変な日でもないのに、もったいないですね(笑)。





 今日は、昼食時にスターンの2冊目ですね。3冊目とずっと間違っていました。の復習をしていました。



 下記の様に、無意識の裡にできるまで、意識することなく、乳幼児の頃から自分の周囲から刺激を受け、それに反応して学習しているのでしょうか?それが、ウィニコットが言う、ほどよいという環境で粛々と進んでいくと言うのが、望ましいことなのでしょうか?
そういうことを、小学校くらいから中学生まで、きちんと教えていけるような教科が出来たらいいですね!以前も言いましたが(笑)、体育も、競争を煽りたてるようなことをしないで、野口体操やアレクサンダー・テクニークの様に、自分をまず中心に考えながら(自分の体をまず大事にする)動きを構成していく様なものが出来れば、自分を大事に出来る人は、他人も大事に出来ると思われるので、そういう意味で、そんな教科もできたらいいのになぁ〜と思います。大分逸れましたが......。
 本当勉強になる本です! 
 『自己−同時性とは、四肢、体幹、顔などといった体の各部分が瞬時も狂わず、シンクロナイズして動く傾向にあるーー事実動かなければならないーという事実、つまり、1つの筋肉群における動きの開始、中止、方向転換、速度変換が、他の筋肉群のそれとシンクロナイズするということを意味しています。』







時間的構造の一貫性:時間は、オーガナイゼーションを促す構造を与え、その構造が、互いに異なる存在の同定を助けます。人が複数の行動を全く同時に起こした場合、これ等の行動は、共通の時間的構造を共有するからです。CndonとOgston(1966)は、この自己−同時性self−synchronyを、この項で後から述べる、総合的交流的同時性と混同しないよう区別しました。自己−同時性とは、四肢、体幹、顔などといった体の各部分が瞬時も狂わず、シンクロナイズして動く傾向にあるーー事実動かなければならないーという事実、つまり、1つの筋肉群における動きの開始、中止、方向転換、速度変換が、他の筋肉群のそれとシンクロナイズするということを意味しています。とは言っても、2つの腕が同時に同じことをしていなくてはいけないとか、あるいは顔や足が一緒に動き始めたり動きをやめるということではありません。体のある部分の変化が他の部分の変化とシンクロナイズして起こるという基本的な時間的構造を失わない限り、各部分はそれ独自のパターンを描いたり、独自に動きを開始したり中止するしてもかまわないのです。加えて、これらの動きの変化は、音素phonemicレベルで、姿勢の言語領域ともシンクロナイズして起こりますから、指揮者を体、声を音楽とみなした場合、自己−同時性を有する行動の時間的構造は、オーケストラがようなものです(数を数えながら頭を叩き、おなかをさするのを同時にやってみてください。この時間的一貫性に反する行為もできないことはありませんが、かなりの集中力を必要とします)。要するに、自己が発するすべての刺激(聴覚、視覚、触覚、固有感)は時間的構造を共有し、逆に他者が発する同様の刺激は別の時間的構造を共有しているわけです。さらにStern(1977)は、母親のとる、自己−同時性行動は、あらゆる面で強調され、誇張されていることを見出だしました。またBeebeとGerstman(1980)は、母親の行動全体が、シンクロナイズした動作ないしは単位面積して、ひときわ密であることを観察しました。これらの2つの観察から、母親は自分の行動の時間的構造が時にはっきりするよう、振る舞うものと考えられます。