うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

カレー+ビッグマックセットと、ブドウの剪定と、【つまり、どの自己感の発達の中断にしても、後の病理の前兆となる可能性はありますが、それぞれに異なった自己感は、正常発達を表すようデザインされているのであって、病理形態の個体発生を説明するためにデザインされているのではありません(だからといって、それらが究極的に病理を知る助けにならないというわけでもありません)。】


 昨夜、事務所でアップしようと準備をして夜勤に入ったら、電話も含めてネットがつながらず、断念して今アップし直しています(笑)。
昨日は、夜勤だったので、午前中自宅で事務仕事して、頭が煮えたので(笑)、早めに近くのファミマでカレーを食べたら、親分から電話がかかって来て、ビッグマックを間違って注文したので、食べに来いって......。
 食べれるかな?と思いながら慌てて行きましたが、食べれました(笑)。
 皆さん楽しそうに食べておられ、一緒に過ごしたかったですが、まだけりがついていなかったので、自宅に戻り、けりをつけて前々から気になっていた、すろーじゃむのブドウの剪定に行って来ました!

 手前の方は、2本伸ばしていて、剪定時に良い方を残そうと思っていたので、良い方を残しましたが、先端を悪い方と勘違いしてしまい(笑)短くなってしまいました.....。


 奥の方は、今年の母枝が弱かったので、徒長していない良い枝を残して、来年の母枝にしました。
北海道では雪がつもるので(2m位)、母枝を針金から外して地面に降ろす作業があり、雪解けとともに、また母枝固定をする作業がありましたので、大変でした。
 まともに肥料をあげていないので、枝が弱いですね....。でも、これで来年もやります。肥料は刈り取った雑草のみです。
農薬もまだ使っていません。来年で4ねん目になります。
 写真はありませんが、いちごも猛暑の中、生き残った株が元気になっていました。数が激減しましたが、その分美味しさが増すかもしれませんね!ピンチをチャンスと考えたら、何となく元気が出て来ます。








 今日は、夜勤明け送迎がありましたが、近くだったので、送迎後、ファミマ(ファミマの回し者ではありませんw現金の支給が無いので、ワオンカードが使えるお店にしかいけないので.....)で、ボケた頭を珈琲で起こしながら本を読みました。あと1章だけになりました。下記とは直接関係はないのかも知れませんが、今読んでいる所は核心に迫っていて、より学べます!



 個人的には、その方の特性を見ながら支援方法を組み立てて行っていると、古典的な精神分析の方が分かり易く、使いやすい時があるので、何でも新しい物がいいとは限らないと思っています。スターンはスターンで、その理論にうまくはめる事ができる方々もいますし、どれを使うかの選択肢が多い方がいいし、選択肢を持つには勿論沢山の理論を身につけていないといけません。それはいつも言っていますが(笑)、アートも音楽も全く同じで、自分の癖・指癖だけでは解決・表現できないことはやまほどありますし、上には上があります。

 取り敢えず自分は、福祉もあーとも音楽もまだまだ途上なので、自分なりに学んでいくしかないと思っています。





発達の中心テーマに関する展望精神分析学的展望

精神分析的発達理論はどれも、もう1つの前提を共有しています。それは。発達が1つの時期から次の時期へと進むこと、そして、おのおのの時期が、自我やイドの発達にとってそれぞれに特異的な段階であるばかりでなく、それぞれの時期に典型的な臨床問題があるという前提です。簡単に言えば、発達段階とは、後の人生において病的な形で現れる可能性のある特定の臨床問題と乳児が初めて出会い、それに対処する段階だと言えます。これは、Peterfreud(1978)とKlein(1980)が、病理形態的でしかも回顧的である発達システムという言葉で意味しようとしたことです。もっと厳密に言えば、Peterfreudは、“特に精神分析的思考で特徴的な、基本的概念の2大虚偽すなわち、乳児期を大人の図式にあてはめようとしたり、あるいは後に現れる精神病理に関する仮説を用いて早期の正常発達を特徴づけようとする傾向”について語っているのです。



 〜Freudのいう口唇期、肛門期などの発達段階が、欲動発達の段階ばかりでなく、固着(やがて特定の精神病理の単位となるもの)の起こり得る期間、つまり病理の起源となる特定の時点とも関連しているとするのも、この考え方によるものです。同様にEriksonは、後に現れる自我と性格の病理における特定の根源を、彼の示した発達段階の中に求めました。また、Mahlerの理論においては、幼児自閉症、幼児期共生精神病、依存過多など、後になって出てくる臨床上の現象を理解する必要性が、発達早期に何らか予備的な形でこれらの現象が発現するとの仮定をまず生み出しました。 ここにあげた精神分析家たちは、過去にさかのぼって物事をとらえようとする発達理論家です。彼らの第1の目的は、精神病理の展開を理解するのを助けることなのです。事実、それは治療的に緊急を要する課題であり、他の発達心理学では扱っていないものでした。しかしそのため精神分析家たちは、成人に見られる、病理形態的に選出された臨床問題に、発達上の中心的役割を与えるはめになってしまったのです。 それとは対照的にここでのアプローチは、病理形態でなく正常を扱い、しかも過去志向的でなく未来志向的です。つまり、どの自己感の発達の中断にしても、後の病理の前兆となる可能性はありますが、それぞれに異なった自己感は、正常発達を表すようデザインされているのであって、病理形態の個体発生を説明するためにデザインされているのではありません(だからといって、それらが究極的に病理を知る助けにならないというわけでもありません)。