うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、【そのような情報の唯一の宝庫は、私たち自身の人生物語、つまり、自分自身が社会生活を送りながらどう感じてきたかです。】


 今日は、お天気が悪く、散歩は午前、午後とも蔵王山展望台で、合わせて3時間約20,000歩あるきました。
午後からは、晴れたり曇ったりで、またまた良い感じの空でした!

 としちゃんは、若いので余裕ですが、時間に制限があるので、これが精いっぱいの支援です。
本当は、お互いもっと歩きたいですね!

 午後、雨が上がったら、綺麗な虹が出ていました!
としちゃんにご褒美ですね!


 本は、夕食時に少し読みました。中々考えさせられる箇所でしたが、この本の本当に書きたいところが出て来る直前の様な気がしたので、早く読みたいですが、こちらも時間との闘いなので(笑)、そうは問屋が卸しません.....。
 事務仕事が全然できていなくて、せめて給与計算だけでもと思い、仕事を持って帰りましたが、終わりませんでした.....。
11月に入って昨日が初めての休みだったので、やれば良かったと後悔していますが(笑)後の祭りです。日曜日の夜勤前までに仕上げないと銀行さんの都合もあり、大変ですが、集中すれば直ぐに出来ますので、皆様、ご安心ください!


 下記は、全てのことが、全ての物と、神田橋先生の言い方を借りれば、折り合いをつけていると言う事なのでしょうか?
自分は、折り合いをつけるのが下手で困っています。自分だけの事ならいいのですが........。
 『そのような情報の唯一の宝庫は、私たち自身の人生物語、つまり、自分自身が社会生活を送りながらどう感じてきたかです。すると、どうしても問題が残る。乳児の社会体験はこんなふうであろうという推論をする際の主な源泉が、大人自身によって語られた大人の主観的生活ということになるからです。ある程度の堂々巡りは避けられません。』 



  被観察乳児もまた特別な構造物です。それは、動く、笑う、新しいものを探索する、母親の顔を識別する、記憶を書き直すなどと言った、直接観察可能な能力を描き出したものです。しかし、これらの観察はそれ自体、生きた社会体験を乳児が“どう感じるか”についてはほとんど教えてくれません。それどころか、被観察乳児をしてオーガナイズされたりオーガナイズし直されてゆく能力の、はちきれんばかりのリスト以上のものにしているより高度なオーガナイゼーションの構造については、ほとんど何も語ってくれません。したがって、現実の乳児が実際どう体験するか推論しようとするとたちまちーー自己感のような主観的体験を盛り込もうとするとすぐーー着想の源泉は主に私たち自身の主観的体験へと押し戻されてしまいます。しかし、それこそまさに臨床乳児の領域なのです。そのような情報の唯一の宝庫は、私たち自身の人生物語、つまり、自分自身が社会生活を送りながらどう感じてきたかです。すると、どうしても問題が残る。乳児の社会体験はこんなふうであろうという推論をする際の主な源泉が、大人自身によって語られた大人の主観的生活ということになるからです。ある程度の堂々巡りは避けられません。 被観察乳児と臨床乳児。この、乳児に関するおのおのの見解は、それぞれ他方には欠けている何かをもっています。つまり前者は立証しやすい乳児の能力を、そして後者は社会生活にとり基本的で一般的な主観的体験に寄与します。