うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ライバル現る!と、【言い換えれば、実際何が起こったではなく、どう体験したかが物語の内容となるのであって、その逆ではないのです。】


 いのうえっちは、時々パズルをみなさんとされますが、大分上達してきましたが、突然現れたライバルに、押され気味も(笑)余裕でした!
頑張れ!いのうえっち!

 自分が夜勤の時は、最近ツイストショーになっています(笑)。


 今日は、自分の受診の待ち時間に本を読みました。後2章で終わります。
11月に入ってのやっとの休みで、給与計算など、期限のある事務仕事をと思っていましたが、まあ止めときました(笑)。仕事は見つければ際限なく出て来ますが、他の方の方が出来る事は少しずつやって頂いていますし、自分がやるよりも間違いがなく、対外的にも信用になっています。でも。自分がやらなければいけない仕事もあるので、なくなりはしませんが.......。


 

 下記は、偉そうですが(笑)、全く同感です!その結果を導くのに、色々な方法があるということですね! 
 Freud,Erikson,Klein,Mahler,そしてKohutによって創られた人生早期の物語は、同じ症例においてさえ、それぞれ少しずつ違うはずです。おのおのの理論家たちは、それぞれ異なった体験の特徴に重点をおきました。その結果、“患者の人生はこうであったろう”という物語も、おのずと異なったものとなってくるのです。』



 下記は、現場にいて本当にそう思います。よかれと思ってやったことが仇になったり、そんなやり方でいいのかな?と思いながらやったことが功を奏したり、相手が実際にその行為をどう感じているのか?が問題なのですね。
 『言い換えれば、実際何が起こったではなく、どう体験したかが物語の内容となるのであって、その逆ではないのです。』


 今日読んだ箇所も勉強になりましたが、この章も本当に勉強になったり、再確認できたりで肥やしになりました!







 臨床乳児は、ごく特殊な構造をしています。つまり、幼かった頃について、患者の語る話がストーリー全体として意味をもつように作り上げられるのが臨床乳児です。精神分析的な治療は特殊な作り話、「語り」だと多くの治療者がいうのはその意味です(Spence 1976;Ricoeur 1977;Schafer 1981)。物語は、語られるうちに、話し手、聞き手によって変えられもすれば、また新たな発見もなされます。歴史的真実とは、何が語られたかによって決まるのであって、何が実際に起こったかによるのではありません。ですから、ある人の人生(特に人生早期)に関する物語は、どれをとってみてもそれぞれに真実であるかもしれない。事実、早期の人生が実際にどんなふうであったかに関しては、諸説粉々、いろいろな物語が考えられています。Freud,Erikson,Klein,Mahler,そしてKohutによって創られた人生早期の物語は、同じ症例においてさえ、それぞれ少しずつ違うはずです。おのおのの理論家たちは、それぞれ異なった体験の特徴に重点をおきました。その結果、“患者の人生はこうであったろう”という物語も、おのずと異なったものとなってくるのです。



  言い換えれば、実際何が起こったではなく、どう体験したかが物語の内容となるのであって、その逆ではないのです。ある意味で、過去はフィクションです。この観点に立てば、臨床(語られた)乳児と被観察乳児の妥当性を相互に確認し合うことなど無理難題です。接点など存在しないのですから。