うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

外食と、【つまりこういうオーガナイゼーションを促す主観的体験こそ、言葉をもつ以前に存在する自己なのです。】


今日は、日中賑やかで、ホームで残っている方と、ショートの明けの方とで、志都呂イオンモールに行きました。
お昼に入られる方、夕方に入られるかた、ヘルパーさんと外出しておられた方などがおられて、3班に分かれていました。


 まりちゃんとりえさんと自分は、オムライス!安くて美味しかったです!
まりちゃんはもちろん、利恵さんもペロリ!

 まっつんは、一番高級な、ロースかつ定食!
じっくり堪能されていました!


 ゆうちゃんは、毎度のカツカレー!なぜでしょう?

 食後にガーデンパークとも思いましたが、14時には帰宅される方がおられたので、モール内を少し歩いて、帰ってきました。
今度はゆっくり行きたいですが、インフルエンザが流行り出しているので、暫くは自粛でしょうか?




 今日は、早番と......。ですが(笑)。5時に出て、ファミマで本を読みました。 


 言葉を持つ自己と、その前の自己って、新しい脳と古い脳みたいに感じたのは、自分だけでしょうか?






  〜古典的精神分析的な考え方をする人たちの中には、前言語的主観的生活という課題そのものを、方法論的にも理論的にも、正統な検索の領域を越えるとして無視する人もいます。同じことが発達論者たちの多くについても言えます。そうなると、人間の体験に関する正統な検索が、その他真の起源の研究を排除してしまうことになりかねません。 しかし、それこそがまさに私たちが研究したいことなのです。すると、当然次のような疑問が湧いてきます。ーーどんな自己感が、言葉をもつ以前の乳児に存在するのかーー“感sense”という場合、それは単純な(自己反映的ではない)意識を意味します。つまり、概念ではなく、直接的体験レベルで語っているのです。また“自己”という言葉は、乳児の行動や精神過程に伴ってのみ起こってくる意識の不変的パターンを意味します。意識の不変的パターンとはオーガナイゼーションの様式の1つです。それがどんなものであれ、オーガナイゼーションを促す主観的体験が、後に“自己”という言葉で呼ばれるようになります。つまりこういうオーガナイゼーションを促す主観的体験こそ、言葉をもつ以前に存在する自己なのです。それは、客観化でき、自己反映的で言語化できる自己とは実存的に対をなします。