うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

市民館祭りと、【音楽を体験するときのように情動を体験しているとき、人は、時間の流れに、“調子を合わせて”いるのだと、覚えておくことが大切である。】


 今日は、昨日みなさんと準備した、市民館祭りの本番でしたが、自分は気前がよすぎるので(笑)、出禁になっています。
まりちゃんが受付で、利恵さんが看板娘!でした。(事務仕事の間に少し覗きにいってしまいましたw)


 結構盛り上がっていて、まりちゃん大活躍!
直ぐに1等賞が2つ出てしまい、店じまいしようとしていたら、

 女性職員さんが、1等賞を2つ持って来てくれ、延長できたとのことでした。
ありがとうございます!



 お楽しみは、お昼ですね!皆さん美味しそうに食べられていたとのことでした!




 

 本は、朝読みました。2冊目のスターンがやっと半分です!今年中に3冊目のスターンまでと思っています。

 下記は、自分のペースや、思い通りには中々地球は回ってくれないので、乳幼児から体験した相互的なものが統合され続けている中で、無意識裏で、時間の流れ(超自我とイドの葛藤を自我にしているような感じでしょうか?違うでしょうか?)や社会の流れに調子を合わせてしまっていると言う事を自覚しろ!と言う事なのでしょうか?
 『音楽を体験するときのように情動を体験しているとき、人は、時間の流れに、“調子を合わせて”いるのだと、覚えておくことが大切である。』




 下記は、全ての事象が連続しているということを、忘れないで考えていかないといけないと言われている気がしました。
 『残念なことに、情動について語るとき、われわれは、たいていそれらが時間の中でのみ体験されることを忘れてしまい、時間と関係なしに起こる静的な事象と見なせる他の心的現象と同じように扱ってしまう。音楽のフレーズや感情の、ほんの一時の切片を、写真のように、全体を損なわずに取り上げることはできない。』





 ギターを弾くときも、コードを一つ一つ別の物だと考えずに、トニック⇒サブドミナントドミナント7⇒トニック というような連続の中の一つと考えなさい!と言われている気がしました。
 『私たちは、あたかも体験が一時という広がりの限度をもたないかのように振る舞ったり、一時という側面は出来事の変転によって十分代替されているたと見なしているが、しかし、出来事そのものが一時のものだと考えられていない。』








3.“一時の感情形態(Temporal Feeling Shapes)”という形をとる情動スキーマ

はじめに、たとえ他の心的現象から完全に自由であるということは決してないにせよ、自由に漂っている感情が、どうやって表象されうるのかを想像してみよう。その形式や構造はどのようなものであろうか?ありそうな答を示唆してくれる一つは音楽である。音楽が呼び起こすものは、情動よりも感情であり、それは“偶発的なものとの絡み合い、つまり日常の特殊な外的現実から解放されている”(Langer,1967,p.88)からこそ“純粋で”抽象的な感情である。そして確かにこの効果を生み出す音楽の最も不可欠な側面は、時間の体験と、主観的時間を構築することである。これは他の感情でも同じであるに違いない。つまり他の感情も、時間の主観的体験を構築するし、またその時の主観の変化が、どのように情動体験が表象されるのかに鍵を提供するであろう。  音楽を体験するときのように情動を体験しているとき、人は、時間の流れに、“調子を合わせて”いるのだと、覚えておくことが大切である。それは一時の体験であり、刻々と展開する変化が体験を作り出す。残念なことに、情動について語るとき、われわれは、たいていそれらが時間の中でのみ体験されることを忘れてしまい、時間と関係なしに起こる静的な事象と見なせる他の心的現象と同じように扱ってしまう。音楽のフレーズや感情の、ほんの一時の切片を、写真のように、全体を損なわずに取り上げることはできない。私たちは、あたかも体験が一時という広がりの限度をもたないかのように振る舞ったり、一時という側面は出来事の変転によって十分代替されているたと見なしているが、しかし、出来事そのものが一時のものだと考えられていない。おそらくこうした理由から、情動的体験を表象化する土台になるのが一時の輪郭(temporal contour)だという考え方を多分に見過ごしてきたのである。〜