うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

洗濯たたみと、女子会?wと、【過去の語り口は、過去の歴史それ自体よりも過去をよく示すものかもしれないというように、語り口は表象の露われの一つである。】


 いのうえっちは、毎晩まりちゃんと一緒に(時々利恵さんもw)洗濯たたみをされています。
皆さんを笑わせてくれたり、用事を手伝ってくれたり、頼りになります!


 女子は、何やらひそひそ話した後で、大笑いをされていました(笑)。何の話をされていたのでしょうか?ちょっと気になりますね!





 今日は夜勤なので、ジムで身体を追い込みに行こうかと思っていましたが、現場に呼ばれ、送迎をしてから帰宅する前に、ファミマで本を読みました。まだまだ復習です(笑)。
直ぐに理解できないので、何回も読まないといけないので、親を怨みます(笑)。




 下記の2つは、色々あった事が統合されたということでしょうか?細かいことよりも、心的に統合された形が、その人が自分の中にもった表象というのでしょうか?
ゲシュタルト的な感じがしましたし、現場で初めて利用される方が、布団などの寝具を丁寧に片付けていたりされていた時に、直していると、おびえたような顔をされているのを見ると、どこかで同じようなことをした時に、ひどい目にあわされていたんだろうなと、思う時があります。そんなこともふと思いました。

『過去の語り口は、過去の歴史それ自体よりも過去をよく示すものかもしれないというように、語り口は表象の露われの一つである。』

『語りの一貫性は歴史の真実に勝って、より強力に予想するのである。』





 


4)母親の実母に関するスキーマ
 赤ちゃんの到来によって、新しい母親は、意識的にせよ無意識的にせよ、自分自身の母親を再評価し始める。ここでも、十分に確立されていた表象が、出産後の変化のるつぼに引き込まれる。新しい、あるいは少なくともよりよく推敲され理解された実母に関するスキーマのネットワークが出現することはきわめて多い。そこには、自分が子どもの時の母親として、または妻や女として、そして新しい子どもの祖母としての母親が含まれている。
 子ども時代に自分を育てた母親に関する表象は、その女性が今自分の乳幼児にとってどのような母親になるかに大きく影響を及ぼすであろうことは、臨床家たちが以前から示唆しているし、民間の知恵もそのように伝えている。〜

 この研究は強力な世代間伝達の影響という考えを支持するだけでなく、さらに進んで、母親である彼女自身の母親に関する現在の表象の性質は、母親が12ヵ月の乳幼児と確立する愛着パターン(安定型、アンビヴァレント型、回避型、無秩序型)を単一で最もよく予測するものかもしれないと示唆している。12ヵ月時の愛着パターン(Ainsworth,Blehard,Waters,&Wall,1978)は、就学前と就学初期の数年の間、子どもの一般的適応を最もよく予測するものの一つだと証明されていることを思い出さなければならない(たとえば、Grossmann&Grossmann,1991;Parks,Stevenson−Hinde,&Marris,1991;Sroufe,1983を参照)。
 概して女性が自分の母親から子どもの世話の仕方を学ぶのは、驚くことではない。この過程の理解を助けるものとして、モデリング、同一化、内在化などの概念がある。女性は肯定的なモデルからも、否定的なモデル(“私は決して母親のようにはしない”)からも学ぶことができる。しかし、成人の愛着についての研究は、世代間伝達の影響に関する問題に、新しい予想外の次元を加えた。母親自身の母親に関する表象という側面は、彼女の将来の養育行動を最も良く予測するけれども、それは必ずしも過去に起こったことーー彼女が良いあるいは悪い養育経験をもったかどうかーーではなく、むしろ今の母親についての考え方、話し方である。母親はこれらのスキーマのネットワークについて、一貫性をもって語っているであろうか?情緒的な距離をあまりにも取りすぎる、あるいは取らなさすぎる語り方をしているであろうか?またどの程度現在と結びつけて、あるいは結びつけずに語っているであろうか?言い換えれば、話し方の形式は話す内容と同じぐらいーーあるいはそれ以上にーー重要である。過去の語り口は、過去の歴史それ自体よりも過去をよく示すものかもしれないというように、語り口は表象の露われの一つである。〜

 語りの一貫性は歴史の真実に勝って、より強力に予想するのである。
この発見は直観に反するものである。しかし、この発見はある女性が自分の過去、特に養育された経験を理解し、見通し、首尾一貫したものにするという心理作業を通して、悪い過去を克服したり、それを繰り返す運命から逃れたりするための扉を開くことになる(Fonagy,Steeled,Steele,et al.,1991)。〜