6時30分に現場から電話があり、直ぐに駆けつけましたが、大したことが無く、ファミマで本を読んでから、歩いて帰宅しました。
自転車でも通らないような道を歩いていたら、彼岸花が咲いていました。
今年も、もうそんな時期なんですね......。
今年も何もしなかった感が強くて、ちょっと焦って来ました(笑)。
スターンは、きっと、心理学が脳科学を使うようになった時代の方なんだろうなと、ろくに調べもしないで(笑)、勝手に思いました。
精神分析も、占い的なところが自分的にはしていて、フロイトの理論を、自分に当てはめると、ああそうか、あんなこともあったな、こんなこともあったな....と、色々記憶がよみがえって来ますが、それは事実を歪曲しているのでは?相対的な想起なので、まとまったことなので全体的にみたらそうだったかもしれない....。等々考えれば考えるほど、色々と自由連想が始まり、終わりそうもありません(笑)。きっと無知のなせる業なのかも知れませんね(笑)。
でも、スターンのマイクロ分析となると、スキーマー療法と、精神分析との境目がなくなっているような感じさえします。あくまで、個人的な意見ですが(笑)。
アップはまだ、続きです。
下記は、現場での支援でも気をつけないといけない事かも知れませんね。あまりにも高圧的に出たり、無視を続けたら、きっと下記のように利用者さんがなる可能性があります。
『もし両親が、成長しつつある小児の変わりゆく自己対象ニードに適応できないと、その子は、両親との欠かせないつながりを保持しようと、両親が与え得るものなら何にでも適応する。』
下記も、上記と同じ根のように感じました。
『もし両親が、成長しつつある小児の変わりゆく自己対象ニードに適応できないと、その子は、両親との欠かせないつながりを保持しようと、両親が与え得るものなら何にでも適応する。』
第5章 自己心理学の論客ストロロウ
――間主観的アプローチ――
7,葛藤
〜Stolorowによれば葛藤は、欲動の産物ではなく、間主観的なかかわりの中で結実する患者の主観的な自己体験ですから、その理解も、欲動の盛衰の理解によってではなく、間主観的な文脈を通して、患者の主観を理解することによってなされます。例として、伝統的な精神分析の表現としてよく見られる「苛酷な超自我」あるいは「サディスティックな超自我前駆体」という概念を、Stolorowがどう説明するか見てみましょう。
「もし両親が、成長しつつある小児の変わりゆく自己対象ニードに適応できないと、その子は、両親との欠かせないつながりを保持しようと、両親が与え得るものなら何にでも適応する。まさにそれが、内的葛藤が構造化され、文明人が『幸せの可能性の一部を何らかの安全性と交換する』(Freud,1930)プロセスである」(p.90)。 「おおかたの場合、両親との欠かせないつながりを保持しようとする児童が求められることは、両親にとって重要な自己対象機能を果たすことである。たとえば親が、その子との太古的な一体感を持ち続けたいとたえまなく感じているとすれば、もっと分離した自己の状態を求めるその子の奮闘は、強烈な葛藤と罪悪感の源泉となる。そうした状況におかれた子どもは、自己の境界をつけようとする行為や自分にユニークな情動を両親は、心理的に破壊的なものとして体験しているであろうと理解するので、自分を、万能的な破壊者としてとらえるようになる。