今日は、外出の日と、大分前から決まっていましたが、移動支援などの変更があり、3名だけ(職員を含め5名)で外出しました。
お昼は、ガストで頂き、
お風呂を、すろーじゃむの大きなお風呂に入りに行きました。
台風で、大分やられてしまいましたが、ブドウが熟したので、採って来ました。
美味しいと言う方がいたり、酸っぱいと言われる方がいたりですが、実がついている部位だとか、個体によって味が随分違うようです。
トムソン・シードレスと、北海道の友人から頂きましたが、なんか、ピノ・ブランの様な、ミュラートゥルガウのような味が(だいぶ違うかw)しました。個人的には好きな味でしたが、一つだけにしておきました(笑)みなさんの朝食に出して頂きます。
皮が、強風で擦れたせいか?傷だらけですね......。
朝、外出に使う車を取りに行ったら、稲刈りが始まっていました!
地元の祭りまで1ヶ月を切りましたね!
本は、早番のお手伝いをした後、11時からの遅番だったので、ファミマでコーヒーを飲み、覚醒を促しながら(笑)本を読みました。
この本は、支援に役立てようと、他の本と同様に読み始めましたが、自分の心の深くまで浸みこんで行くのが分かってしまいます。
下記は、非常に心の深くまで染み渡りました。
『薬物は、愛してくれ、また愛している対象、あるいはその対象との関係の代用品としてではなく、心的構造の欠損の埋め合わせとして働くのである。』
その『埋め合わせ』をしておいて、核心に迫って行けば、お互いに、辛い思いをしないで、ワーキング・スルー出来るのでしょうか?
〜Kohutの理論においては、心的構造の『欠損defect』、そしてその『埋め合わせreplacement』、という概念が重要な役割を果たします。たとえば、薬物中毒の患者の精神力動における薬物が果たす役割についてKohutは、次のように書いています。 「薬物は、愛してくれまた愛している対象、あるいはその対象との関係の代用品としてではなく、心的構造の欠損の埋め合わせとして働くのである」(p.46)。
それは、治療場面において理想化転移が展開した場合でも同じです。 「被分析者は、自己愛的に体験される自己−対象へのニードを再活性化するが、この自己−対象は、心的装置の特定な部分における心的構造の形成に先立つもの(訳注:前構造的なもの)である。そして、この請われた対象(つまり分析医)から被分析者が期待するものは、自己愛的ホメオステーシスの領域における何らかの基本的な機能の遂行である。その基本的な機能を、被分析者の心的構造は果たせないのである」(p.46−7)。
こうした心的構造の形成は、対象へのリビドー備給の撤回と、そのリビドーの心的内界への振り向けによる、対象ないしはその機能の心的内界における再現によってなされます。融和した自己期におけるこの過程を重視するKohutは、それを変容性内在化transmuting internalizationと呼び、本書全体を通じ克明に検討しています。〜