うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

昨夜のうたたねと、【日常の生活、日常の臨床において、自分の中の主観的現実が客観的現実とはイコールではないことを自覚し続けることは非常に難しい。】


 昨夜、沢山写したので、今日もアップさせて頂きます。
夕食後、まり子さんとたくちゃんが、アイスクリームのちらし?を見ていて、どれがいいかな〜ってやっていたので、仲間に入れて頂きました。ちょうど小腹が空くような時間だったので、みんなで我慢、我慢でした(笑)


 皆さんの居室の温度を見に行ったら、はるくんが、頭からお腹まで布団の中に入っていました(笑)
普通は、頭寒足熱ですよね.......。みなさんの居室は、全て適温でした!
 夜勤帯は、室温に一番気を使います。季節ごと、その日の気温の変化などに対応して行かないといけないので、本当に室温は気を使います。




 2階から降りて来たら、たくちゃんが、おっちゃんに、これ見よがしにブラッシング(笑)。
一緒に過ごしたり、プライベートな時間を大切にされたり、自然に動かれています。



 今日は、夜勤明けで、帰宅前にファミマで本を読みましたが、眠くて、うとうとして来たので(笑)、帰宅しました。
寝ようか?寝ないでおこうかと考えながら、中島みゆきの『糸』をアレンジしていたら、あっという間に、夕方になり、親分が帰ってきて、曲を聞いて、病んでるんか?と.......。結構気に入ったアレンジでしたが(笑)、一気に自身がなくなりました......。


 夕食後、給与計算をしようと、現場に出勤簿を取りに行きましたが、今日はみなさんゲームをされていました。
夜勤が主任さんなので、余裕で掃除など、明日の分まで終わっていました!



 まあ、今日は早めに寝ます(笑)







 下記は、ちょっとタイムリーな箇所もありますし、自分の意識をもう一度確認する機会も与えてくれました。



第6章 間主観的感性
2,間主観性の実践
 〜「客観的現実」も、「そこに鉛筆がある、「彼は風邪をひいて熱がある」といったレベルであれば、ほとんど問題はない。ところが、そうした叙述が心の葛藤、関係性に及ぶと、「客観的現実」という概念自体が、急速に怪しくなってくる。例えば、ほんの10年前、「ぺニスの代理を求めて男の職場に入り込み、男たちと競い合った、『エディプス葛藤を抱えたヒステリーの女性たち』」が、今や(まだ日本ではともかく)アメリカでは、若い女性の理想の姿の1つと考えられるようになっているし、「重症な精神病理を抱えた同性愛」は、今、精神科においては、病理ではなく正常に性生活の亜型として、また社会的には(同姓のではなく)同性の“配偶者”として、普通に結婚における配偶者同様、医療保険の適用の対象となるところまで来ている(メイヨ・クリニックでも2001年から、同性の配偶者にも健康保険が適用されるようになった)。当時、客観的事実に見えた「代理性のぺニスを求めるヒステリー性の病理」、そして「同性愛の病理」が、今や病理ではなくなってしまったのである。この新しい視点を「現代医学の主観」、あるいは「現代人を主観」と呼び、「客観的事実ではない」という人があるかもしれない。その通りである。しかし、全くそれと同じ意味で、「ヒステリー性の病理」という理解も「同性愛は病理」という理解もまた、「客観的事実ではない」。あの時代が共有した「主観」なのである。 ここで重要なのは、当時の治療者が、社会的進出を計る女性を「ヒステリー性の病理」、同性愛それ自体を精神病理と確信し、その信念の下に生まれた理解を解釈として伝え、患者がその解釈を受け入れないようであればそれを抵抗として扱っていたことである。今、歴史的な観点に立つわれわれから見れば明らかに「治療者の主観(精神分析的理論もその一部である)」と考えられる分析的理解が、当時、治療場面においては「客観的事実」として君臨していたのである。 この客観主義は、古典的精神分析の専売特許では決してない。それどころかその視点は、「一般的思考」として、深くわれわれの考え方の中に根ざしている。日常の生活、日常の臨床において、自分の中の主観的現実が客観的現実とはイコールではないことを自覚し続けることは非常に難しい。例えば、犬も食わない夫婦喧嘩の最中、その葛藤への自分の側の貢献に持続的に眼を向けていられる人はまずいない(本当にそれができるなら、つまり相手のとらえ方の妥当性を明らかにみられるなら、喧嘩になどならないはずである)。日常の臨床でも同じである、「境界例の患者の症状の発現はその患者がおかれているコンテストによって左右される」とは言ってはみても、治療者側の主観が果たす役割はなかなか実感しにくい。患者の病理があまりに過激で、治療者側の主観など取るに足りないように見えるからである。いずれの場合も、相手(配偶者、そして境界例の患者)は、自分とは無関係な所で、怒り、症状を出しているように見える。自分を治療者の立場、あるいは、配偶者として優位な立場においている限り、この錯覚から抜け出すことは難しい。〜