うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

手当と、うたたね楽団と、【このモデルの主旨は、甘えを精神分析理論が概念として理解しようとする場合に不可欠な甘えられる側の役割ーーもっと正確に言えば、その両者が作り上げる間主観性ーーに焦点を当て、それを観察、介入の窓口とすることもある。】


まり子さんの指が、化膿していたので、看護師が処置してくれていました。
現在、うたたねには、2名の看護師がいます!


 今日も、うたたね楽団は、いい調子でした(笑)。
そういえば、大須のコメ兵さんで、J-45を弾かせて頂いた時に、3千円くらいのウクレレも勝手にチューニングして、弾かせて頂きました(笑)。
 ギターもウクレレ調弦が、3度、4度なので、仕組みが分かるとどちらかが弾ければ、両方弾けますね!
みなさん、弦のアタックが、優しくなってきていて、ウクレレは、オープン・チューニング的なので、押さえなくても、夏らしい音がしていました。
ギターも、オープン・チューニングにすれば良いかもしれませんね!Gかな?Dかな?




 今日は、朝、ジムに行っていたら、碧南から、副理事長さんが来てくれる日だったことを、すっかり忘れていて、理事長から電話がありました.....。
何とか、お昼の時間には間に合い、一緒に昼食をいただけました。きちんとした報告を行いました。
 元市会議員さんなので、豊富な知識と経験をお持ちなので、的確なアドヴァイスをいただけるので、本当に助かります。

 ストレッチばかりを2セットしてから、器械を使って、両足を揃えて、力を入れて150kgの負荷をかけ、30回やった直後に電話があり、慌ててシャワーを浴びて向かったので(笑)野獣の様だったかもしれません(笑)。


 本は、ジムが開くまでの時間、近所のファミマで読みましたが、前回の本に戻って、復習していました。


 下記は、本当に考えさせられましたし、今日の副理事長の話の中でも、支援の度が過ぎない様に、とも言われましたので(自分は最近、現場にはあまり口出しをしていませんが)、余計に考えさせられました。
でも、現場に副理事長がいたら、一番度が過ぎてしまうかも知れないくらい、心の優しい方ですが(笑)。
 親御さんが元気で、ご兄弟などの理解や余裕がある方々は、問題はないのですが、そうでない方々は、自分たちが責任を持ってさせて頂かねば、だれがやってくれるのでしょうか?
結局は、行政の支援が届かないところに一番介入しなければいけないブラックボックスがあるように思います。


 早、明日からは8月です!




5,考察
 〜同じモデルが、がんの患者の告知の問題にも当てはまる。上記の図で、MをMotherではなくMedical Doctorとして考えれば、「患者を傷つけたり自殺に追いやったりしないため告知はしない」という思いやりが、本当はどこまでが患者のためで、どこからは医師の側の甘え(手っ取り早い葛藤解決)なのか、かなり怪しくなってくる。 もう1つ論じておきたいのは、甘えの概念をもたない人々(特にそうした人々の間での交流)に、その概念をあてはめて考えること(着眼点 11,12)の危険である。すでに述べた通り、甘えという概念は、客観的基準を内包せず、観察者側の主観的判断なくしては存在しない。そうした概念をもって、「アメリカ人の精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感である……」とか、「患者をヘルプレスな状態の放置する」といった価値判断を下すことは、無意味どころか危険すらある。 Kohutは、自己の融和性を助けるものとして自己対象に概念を導入し、治療理論の焦点として、「自己の融和性が崩壊する瞬間」を選び、その瞬間における治療者(両親)のわ役割を強調したため、「Kohutは子ども(患者)の問題で親(治療者)を責めている」との誤解を招いた。この論文で展開した私の『甘えの構造モデル』も、同じ誤解を生みかねない。 改めて述べるまでもなく、ここで論じたモデルは、「甘えの病理の原因・責任が誰にあるか」の“尋問”をするためのモデルではない。このモデルの主旨は、甘えを精神分析理論が概念として理解しようとする場合に不可欠な甘えられる側の役割ーーもっと正確に言えば、その両者が作り上げる間主観性ーーに焦点を当て、それを観察、介入の窓口とすることもある。もし、甘えられる側(“体制側”)だけに原因・責任を負わせるような表現になったところがあるとすれば、それは、これまでのアンバランスを敢えて修正するための強調であること。 甘えを、甘える側だけの情緒、ニード、行動、あるいは病理とと考えている限り、この先、甘えを乳幼児精神医学ないしは精神分析の分野でさらに展開してゆくことは非常に難しい。