うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アーティチョークが綺麗!と、【私はすでに、(傷などの)身体治療のある過程を、傷ついた部位へのリビドー(エロス)の流入によると考えてみた。】


 画題に使ったアーティチョークが今、綺麗です。花器から出して、このまま乾燥して、この色が残せたらいいですね!
でも、無理でしょうか?

 今日は、午前中歯医者さんに行き、事務仕事をしに事務所にいました。お昼前にあがり、ファミマで昼食を頂きながら、本を読みました。
もうすぐ、夜勤の時間が迫ってきました(笑)。久しぶりの少し重たい自閉症の方がショートを使って下さるので、じっくり夜間見させていただきたいと思っているので、アップを早めにしました。




 下記を読んでいて、少し前に読んだ、神田橋先生と整体師さんの対談の『いのちはモビール』を思い出しました。
アカデミックに書いたり、話したりしないと、人が振り向いたり、聞いたりしてくれないので(笑)みなさんアカデミックに書かれたり、話されたりされますが、実際問題、みんな身体を持って生きているので、傷が治るように、心も治るのかも知れませんね。心には触れない、心の傷は癒せないと、若い時分に作った(笑)自分の曲がありますが(タイトルは、ワラってみせる!w)、フランス印象派詩人の奥義に、詩は詩であって、それ以上のものではない!もなぜかふと、思い出しました。

 色々書きたかったですが(笑)、出勤します!


追伸:昨日アップさせて頂いたCBCさんのワークショップは7月29日になるとの事ですが、ちらっと聞いただけなので、詳細ははっきりした書面ができてからにさせて頂きます。




  〜これに関連して、器質的病理学においても測る否定(自己切断)と適応活動が働きを見る機会があることを挙げてもよかろう。私はすでに、(傷などの)身体治療のある過程を、傷ついた部位へのリビドー(エロス)の流入によると考えてみた。 現実環境への器質的適応においても心的適応においても、一方で、敵対的な外界部がエロスに助けられて自我に組み込まれ、他方で、自らの自我の愛された部分が放棄されるという事実に満足する説明は、ここまでのすべてを考察をしてもまだ得られていないことを認めようざるをえない。ここで人は、心理学化による説明を持ち出して、実際の快の放棄も不快の承認も常々何か「前駆的」なものにすぎず、いわば原状回復の心的保留による反抗のもとでの服従としたがる。非常に多くある症例においてこれは正しいであろう。潜在的に保持され、特殊な状況下で活性化される退行能力は、はるか以前にすでに乗り越えられているいわば太古的な反応様式がこれを支持する証拠になる。見かけ上の適応は、「古き良き時代」の再来をいつまでも待望し期待している態度にすぎず、したがって基本的において乾燥した状態で何年も水分を待つことのできる輪虫の行動との相違は程度問題でしかない。しかし、器官ないし器官の一部の復元不可能な真の損失というものもは、心的なものにおいても、私たちは償いもない完全な断念に見えるものを知っていることを忘れてはならない。その種の楽観的説明はそこでもはや間に合わず、フロイトの欲動学説から教えを受けねばならない。破壊欲動が自らの人格に方向を向ける症例がある、あるいはそれどころか自己破壊への、死への傾向がより根源的であり、発達の流れの中ではじめて外に向けられるという学説である。そのようないわば攻撃方向のマゾヒズム的変化があらゆる適応行為に関与しているかもしれない。自我の愛された部分の放棄と馴染みのないものの取り入れは並行的な過程ゆえ私たちは、対象を私たちの自己愛の犠牲においてのみ愛する(承認する)ことがわかったとすでに先に十分指摘しておいた。おそらくこれは、すべて、対象愛は自己愛の犠牲の上に発生するというという精神分析が教えてくれた事実に別の光を当てたにすぎないであろう