うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日は休みでしたが、多忙でした(笑)と、【いわば自己愛段階にとどまり、自身の欲求の満足を何もせず待ちかまえ、継続的にそれを拒絶されると簡単に死ぬ原始生物がまずある。】


 今日は、午前中に岡崎の法務局に行って登記し、13時にうたたねにCBCの方が、7月28日のワークショップの打合せに、わざわざ来てくれました。応募は6月25日までみたいです。
 CBC「わくぴたっ。スクール」 たはらサンドアートフェスティバル2018協賛企画『青空にたなびくTシャツをつくろう!』(仮)が今のところのタイトルの様です。なんだか楽しそうですね!
 まだ(案)段階なので、情報はこれくらいにさせて頂きました。15組30名の親子の方が対象とのことでした。



 法務局の予約時間が10時30分だったので、慌てて戻って来ました。
何とか間に合って帰宅したら、今度は、自動火災警報器の件で、設計士さんから電話があり、自動火災警報器は、電話回線がアナログじゃないとダメらしく(時代遅れですね.....)電話番号も、FAX番号もIPでした。NTT西日本さんに電話で相談したら、料金的にそんなに変わらないとのことでしたので、それように回線を新規に契約することにしました。
 なんやかんやしていたら、もうこんな時間.....。いつも、岡崎などに行く用事は、休みがハッキリしている木曜日に行くので、明日は金曜日と、さっきまで思っていました(笑)。今日は休みでしたが。




 
 本は、少し早めに法務局に着いたので、シビックセンターにある喫茶店でお茶を頂きながら読みました。


 最初に出て来る下記の言葉は、自分のことが書かれているような感じがしてしまいましたが、ふと周りを見回すと、利用者さんだけでなく、職員にもそういう傾向がある方がいるようにも思えました......。でも、そこから脱出して頂くのが、自分たちの仕事ですね。一段ずつ少しずつ高い所に持って行けるようにできればいいな!と思いながら仕事をさせて頂いています。そんなに簡単な事ではありませんが、またここで、生き残らなければいけない、という言葉が頭の中で回っています。

 『いわば自己愛段階にとどまり、自身の欲求の満足を何もせず待ちかまえ、継続的にそれを拒絶されると簡単に死ぬ原始生物がまずある。それは非生命体から創造された時点にまだずっと近い地点におり、破壊欲動に戻るまでの距離が近い。つまり破壊欲動がずっと働きやすい。』 


 


 いわば自己愛段階にとどまり、自身の欲求の満足を何もせず待ちかまえ、継続的にそれを拒絶されると簡単に死ぬ原始生物がまずある。それは非生命体から創造された時点にまだずっと近い地点におり、破壊欲動に戻るまでの距離が近い。つまり破壊欲動がずっと働きやすい。一段階高くなると、生物は、不快をもたらす自己の部分を突き放し、命を守ることができる(自律性)。私はかつて、このある種の腐骨を、抑圧過程の生理学的原型と呼んだ。さらなる発達によってはじめて、現実への適応能力、いわば生体による環境の承認能力が生み出される。共生的に結び付いた生物の生き方がとくに見事に示しているように、あらゆる適応においてもこれは証明される。私の「生理分析的」見方と結びつけると、生体においてもすでに、一次過程と二次過程を区別することができる。心的なものにおいて知的水準と評価される過程が後者である。とすれば、単に快と不快の量だけでなく質も測るようなある種の計算器が生み出され、すでに一定する水準と意味で生体に備わっているということであろう。いずれにせよ生体の適応は一定の目的にかないながら変更できて、反射過程が示すようなある程度の硬直性で特徴づけられるが、心的な適応能力は、あらたな現実の承認に常に備えること、そして思考活動が終わるまで活動を抑制しておく能力を可能にする。グロテックが、生体的エスは知的であると述べたのは正しい。しかし、自我の知性とエスの知性の程度差を見逃したとすれば、彼は偏っている。