うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の散歩と、【フロイトは、現実の否定という心理的行為のなかに、現実の無視と、現実の承認の間の移行段階を発見した。なじみがなくそれゆえ敵対的な外界に否定の符号がつけられることによって、不快感にもかかわらず意識可能な段階である。】




 今週も、金曜日の散歩にあたり!午前中は初立池を6,500歩歩きました。
前回来た時よりも、杜若も紫陽花もきれいに咲いていました!
 池の周りだけではなく、杜若や紫陽花の咲いている通路も歩いてきました!





 うたたねに戻る途中、すろーじゃむの換気と、除草をやってきました!
草は、ブドウの唯一の肥料なので(笑)根元に山盛りにして来ました!直ぐになにごともなかったように、ぺちゃんこになりますが.....。

 ブドウの実が大きくなっていたので、北海道の友人に写メを送ったら、葉を見て、湿度が高いね!と即答してきました。入梅したんだよと話すと、納得していました。北海道では、害虫より病気にの防除が中心でしたが、こちらでは逆です。
 去年も、無肥料・無農薬で収穫できたので、気候に任せておこうと思っています。趣味で作っているだけのなので(笑)お気楽です。
去年は、早く収穫しすぎたので、今年は、もう少し待ってみようと思います。勿論、秋にですが(笑)




 こちらは、デイゴの花でしょうか?


 昼からは、芦が池で同じく6,500歩くらい歩きました!終わりころに、雨がぽつりぽつりと降って来ました。








 今日も早番の勤務でしたので、5時に起床して、ファミマでコーヒーを飲みながら覚醒を促して、時間になってから入りました。
本も読ませて頂きましたが、段々、核心に迫ってきているので(個人的にw)、時間がもっと欲しいな!と思ってしまいました。
 明日も早番なので、早めに寝ます(笑)


 分析家への同一化というのは、本当に難しく、怖いことですね。自分自身がきちんとした知識と経験をもって、間違った教育のようなことをしないで、こちらに同一化してもらうというのは、慎重に操作しなければならない事だと思います。勿論、福祉の現場でのことを言っています。現場では、相手に同一化して、それがお互い楽なので(進展させることは、きちんとした知識と経験の両方を兼ね備えていなければできないことなので)、それで、その利用者さんは、自分しかみれないから、ちょっと優越感を感じて、それで終わってしまいがちなのをよく見ます。まあ、中途半端な知識や経験・センスで同一化させている方もいますが、それを思うと前者の方が、許せそうですね(笑)


『〜しかし転移も断念しなければならない治療の終結時になって、患者が現実のなかに、しかもとりわけ分析家への同一化のなかにこの禁欲への補償と慰めを見つけることができなければ、疑いなく否定への逆戻り、すなわち神経症への逆戻りにいたるであろう。〜』




 フロイトは、現実の否定という心理的行為のなかに、現実の無視と、現実の承認の間の移行段階を発見した。なじみがなくそれゆえ敵対的な外界に否定の符号がつけられることによって、不快感にもかかわらず意識可能な段階である。これを否認されると呼ぶ。一次過程においてあらゆる不快を完全に無視するように働く抑圧する力が互いに否定し、つまり除去傾向においても依然として働いているのを見ることができる。幻覚的な負の否定は、完全に成功せずも不快感はもはや無視されずに、かわりに否定として知覚内容となる。当然ながら疑問点が生じる。承認の最終的障害が行く手から取り除かれ、不快感の肯定、すなわち抑圧傾向の完全なる放棄が可能になるにはあと何が興らねばならないのか。
神経症は、半ばだけ成功した抑圧、失敗した抑圧の結果であり、そもそも必ず一つの否定、つまり倒錯の否定であるので、最終的な不快感の承認あるいは肯定の過程は、神経症治療における私たちの治療の努力の成果として私たちの目前で生じる。そしてその詳細に注目することで、この承認過程を描き出すための若干の見通しを得ることができる。 私たちは、転移が深まった段階で、患者がもっとも不快に満ちたものでも抵抗なく承認するのを見ることができる。明らかに患者は、承認の代償として感じるはずの苦痛への慰めを転移愛の多幸感に見出だしているのである。しかし転移も断念しなければならない治療の終結時になって、患者が現実のなかに、しかもとりわけ分析家への同一化のなかにこの禁欲への補償と慰めを見つけることができなければ、疑いなく否定への逆戻り、すなわち神経症への逆戻りにいたるであろう。これについては、早世を惜しまれる分析家、ヴィクトール・タウスクの充実した仕事を思い出さずにおれない。彼は償いによって抑圧動機を明言することを治療の条件に置いたからである。それと同じような形が、不快感の肯定が初めて実現する際にも償いが存在することを推定するべきである。他の方法では、それこそ常に最小限の抵抗の方向に向かって働く、つまり快原理にしたがって働く心のなかで不快感の肯定が発生するとは考えられないであろう。