うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、【それは、ただし、このような極度に重要な願望の満足が、求めさえすればすぐに与えられると確信できる限りであった。】


今日の日中は、蒲郡に行ったようです。賑やかだったので、2班に分かれたと、管理者から聞きました。
 自分は休みでしたが、総会の資料等自宅と事務所でやりました。
一気に片付けたので、大分はかどりました。後は法務局に提出しなければならないものだけですので、ちょっと一息です。

 昨夜、寝る前に、なぜかしら?ねこ踏んじゃったが頭の中でなっていたので(笑)ギターでちょっとやってみようとやっていたら、向きになってしまい(笑)寝るのが遅くなってしまいました。何となく完成しましたが、ベッドでググッたら、楽譜があったので、むきにならなくても良かった......と、自己嫌悪になりました(笑)。まあ、楽しかったので良いとします(笑)。


 本は、早朝とお昼をファミマで食べながら読みました。一応、読み終えていますが、個人的に大事と思われる個所を(線を引いた)読み返しています。早くフェレンツィに行きたいですが(笑)。

 この章も、大事なことが書かれています。本の題名を時々忘れてしまいますが、『一次愛と精神分析技法』というのを、時々思い出さないと、自分の勝手な想像は、全く違う方向に向かってしまっています(笑)。
 下記に述べられているような方たちが、平気で人を殺めてしまう、世の中になってしまっていて、サイコパスという言葉だけで済む問題なのだろうかと?日々疑問を呈しながらニュースや記事を見ています。本当の教育とは何なんだろう?統合失調症の重度の方を見かけないようになったと、木村敏先生が本に書いておられたのも、大分前のような気がします。統合失調症も世の中が封建制度でなくなってきたと同時に出てきた病のようなこともその本には書かれていた記憶がありますし、同性愛の方が増えたのは、家庭で父親の威厳がなくなり、学校の先生の威厳もなくなって来たと同時だと、こちらは河合隼雄先生の息子さんの本に書いてありました。
 サリヴァンも、文化と精神病は関係性が深いと書いていましたので、現代に必要なのは何なのでしょうか?
 全くクリーンな人など居ないし、聖人君子なんて名前だけなので、せめてケジメをつけるということを考えていかないといけないと思って、現場に入らせていただいています。
 きちんと支援ができる方は、きちんとケジメをつけられる方ですね。下記の三箇所を読んで改めてそう思いました。




 『しかし私がそのような経験を教訓として、その後に患者のこのささやかな願望を満たしたときには、小難去って大過ありという事態に陥った。ほとんど躁的と呼んでいいような状態が現出したのである。患者は有頂天になり、ただもう自分の願望の充足をもう一度もう一度と繰り返し求めることばかりをいつまでもやめないようになった。症状はすべて、(見かけ上だが)消え失せ、患者は自分は超健康だと感じた。』




 『それは、ただし、このような極度に重要な願望の満足が、求めさえすればすぐに与えられると確信できる限りであった。』



 『またこのような時期に彼らを分析の仕事に引き留めておくことはまずできなかった。この心理状態は、嗜癖や重度倒錯症の状態にそっくりである。その不安定も似ているが、欲求充足が一度でもきっぱり拒否されたり、いちじるしく遅らされたりすると、嗜癖できなかった至福感の全構造が崩壊し、気分はとたんに、先に述べた絶望と怒り、報復への恐れといった状態に一変するのである。』





第五章 自我の初期発達段階、一次対象愛 (一九三七年) 〜さてここで、さきに述べた分析中に見られる諸現象をまず簡単に概観してから、私自身の研究成果の紹介に取りかかりたい。私は、分析の仕事が相当の深さまで進むと、患者たちをある種の原始的な願望充足を期待し、それどころか要求さえするということがしばしば生じるのに幾度となく気づいた。その期待はおもに分析家に向けられるが、それにとどまらず周囲にも向けられる。私が単純に分析家の受動的役割を守り続けたとき、つまり願望の充足が私の受動的態度によって自動的に阻止されたときに現れた現象は、ロンドン学派の分析家がみせる幼児像に、基本的特徴がことごとく一致していた。心的安全感の喪失、自らが無価値であるという感覚、絶望、きわめて苦い失望感、もう誰にも信頼して自分を託せないという感情、などである。これらは、極めて強い増悪をともなった攻撃性、極めて野蛮なサディズム、幻想、分析家への極めて手の込んだ虐めと辱めの狂乱と入り交じりになっていた。それからふたたび、仕返しされるという恐怖と、もうこれ以上はないというほどのつまり身をよじる悔恨の情も生まれる。それは分析家に愛される望みとか、あるいはせめて関心を持って暖かい気持ちで今後も治療をしてもらいたいというささやかな望みでさえ、永遠に棒に振ってしまったと感じるからである。もう分析家から暖かい言葉をかけてもらう価値すらないと思うわけである。 しかし私がそのような経験を教訓として、その後に患者のこのささやかな願望を満たしたときには、小難去って大過ありという事態に陥った。ほとんど躁的と呼んでいいような状態が現出したのである。患者は有頂天になり、ただもう自分の願望の充足をもう一度もう一度と繰り返し求めることばかりをいつまでもやめないようになった。症状はすべて、(見かけ上だが)消え失せ、患者は自分は超健康だと感じた。それは、ただし、このような極度に重要な願望の満足が、求めさえすればすぐに与えられると確信できる限りであった。またこのような時期に彼らを分析の仕事に引き留めておくことはまずできなかった。この心理状態は、嗜癖や重度倒錯症の状態にそっくりである。その不安定も似ているが、欲求充足が一度でもきっぱり拒否されたり、いちじるしく遅らされたりすると、嗜癖できなかった至福感の全構造が崩壊し、気分はとたんに、先に述べた絶望と怒り、報復への恐れといった状態に一変するのである。 さてもう一歩話をさきに進めよう。それではここでいう危険な願望とは、実際にはどのようなものだろうか。誰でもまるで罪がなく無邪気なものというに違いない。たとえば分析家に暖かい言葉をかけてほしい、分析家をファーストネームで呼ばせてほしい、あるいは逆にファーストネームで呼んでほしい、分析の時間以外にも会いたい、分析家から何か借りたい、あるいはそんなに大したものでなくてもいいからプレゼントがほしい、等である。またさらに、分析家に触れさせてほしい、抱きしめさせてほしい、あるいは触れてほしい、愛撫してほしいというたぐいの願望が多いというこれはしがみつき現象という問題領域にわれわれを導くものであるが、それについてはまもなく触れる予定である。 白状すれば、これらの願望の中に二つの本質的な性質があるを気づくのに、実のところずいぶん長い時間がかかった。その第一は例外なく対象指向的なことであり、第二は、決して前駆快感Vorlustのレベルを越えないことである。つまり、まず第一にわれわれは、それらの願望を満たすことができるのではなく、外的世界、周囲だけであり、自体愛、ナルシシズム的に解消することは彼らには不可能だということである。第二には、満足が適切な瞬間に適切な程度で達成された場合には、その満足の経験は非常にひっそりと起こるため、ほとんど目にとまらない微弱な反応になるということである。この快の体験は、いうことなしという静かな穏やかな感覚、表現できるだろう。ところが、もしこの願望が満たされないままに置かれるならば、満足が激烈に求められ、結果生じるであろう欲求不満は、激しさの限りを尽くす反応を引き起こすのである。 さてここまで論じてきてようやく、私がはじめ非常に混乱した、嗜癖的でけたたましい欲望充足体験がどこから来るのかを説明できそうである。それは無邪気なものでなく、決して一次的な反応ではなく、そこにいたる前史をすでに持っている。それらは蒙った禁止への反応であり、それを患者の中に棲んでいる子どもがまさに言葉のもつれによって間違った解釈を下した場合である。ちょうど良かった自慰の快感が周囲の働きかけを去勢脅迫と受け取ったあと長期間勢いを増し、いくらやっても飽きないようにみえ、いっとき無軌道に排出させまくった後でようやく現実的なレベルにおさまるのと似ている。このことを知っていたら私は私の命名した新規蒔き直しnew beginningという現象を正しく評価し、適切に扱うことができるようになった。