うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ハナミズキと、ねこさんと、【子供がすらすら表現できるのは、親が日常体験する感情、思考、体験だけであろう。】


 約二か月半ぶりに、ジムに行ってきました。今日はストッレッチとランニングマシーンで沢山汗を流せました。
この地域では、街路樹にハナミズキを植えている箇所があり、今、まさに、満開です。

 夜勤に備えて、一度帰宅したら、ねこさんが駐車場で体をこすっていました(笑)明日から雨なので、今のうちだ!というような顔をしていました。
四月から、中々すろーじゃむに行けないので、雨は本当にイチゴには良いですが、日曜日はカーグとバンドの日なので、ちゅっと憂欝ですね.......。



 本は、ジムが開くまで、ファミマでコーヒーを飲みながら、昼食時にも今日は読みました。
この部は、後一章で終わりますが、自分の師匠の批判?やクラインやクライン派の批判にまでなっていて、(読んでいるとバリントの言うとおりかな?とも思いますが、自分は一つの思想だけに、かぶれるのは好きじゃないので)凄いことになってきました(笑)
 まあ、自分はそれぞれの学派の良いところや、その人に使える箇所を拝借させていただき、利用者さんに合うようにアレンジしていくので、批判なんてどうでもいいです(笑)サリヴァンだって、心では師と仰ぎながら、まるでトランプさんの時のように、支持していないかのように振る舞いながら、実は支持している方が多いと、中井久夫先生の本で知りました。左とか右とかに寄りすぎるのも、好きではありません。

 この本を読んでいると、若かりし日の梅原猛先生を思い出しました。なんとなく文章の勢いが似ていると感じるのは自分だけでしょうか?(この後の方が強く感じました)
あと後の章・部への伏線がこのあたりから感じられます。(偉そうw)



 当たり前のことですが、色々考えているうちに、利用者さんの為ではなく、自分の為になってしまうこと(自分の支援方法の正当性を押し付けたり、いい記録を書きたいがために粉飾したり........等々)がよくあります、勿論、自分も含めて! 当たり前というのが、無意識の方に行ってしまうのでしょうか?
『しかしいつも見落としてならないのは患者の第一の願いが理解されることにありがとうことで。』を忘れないようにしたいと思います。

第一五章 育児と分析治療とにおける言語問題
 子供がすらすら表現できるのは、親が日常体験する感情、思考、体験だけであろう。そして英語が表現をたすけてくれるものに限られる。英語には該当する表現のない感情、思考、体験でハンガリーや中国の子供がその母国語で簡単に表現しているものがあっても、イギリスの子供にはそれを表現できず。逆もまた真である。 あえていうが、この単純な事実は、われわれが理論的考察をする際、組織的に抑圧されてきた。われわれは通例、患者の連想内容を分析者の考えの正しい正面として列挙する。しかしいつも見落としてならないのは患者の第一の願いが理解されることにあるということで、そのため患者は分析者に理解できる言語すなわち分析者個人の言語の方言のどれか一つを話さざるを得ないことさらに、イギリスの親は自分の子供に英語で話すのが賢明なことは、決してとりたてて問題にされないようになって、どの分析者も患者と話す時自動的に自分個人の――あるいは集団の――言語を用いている。分析者にとってはごくごく自然なことだ。 こうしてどの分析者も一種の分析言語を発達させている。この言語は、基本構造は同一だが、豊富さ、正確さ、表現性、表現効率の増大をめざし、とくに、すでにそのことばを学んだ人なら誰にもやさしく判ることをめざして変化成長する。一方、別の人には耳馴れぬ苛々することばである。しかし人々が話し理解してもそれだけでは普遍言語の地位に就けないことな忘れてはならない。いかに使用者たちがそう望んでも、である。 これを不可避の事実と受諾するならば。われわれにできることは何だろうか。われわれの理論からすれば、厄介なプログラムとなるというのが答だ。第一に、われわれは精神分析ごとに一箇の辞典と一箇の文法を使わねばならない。これは単語と、単語相互の結合可能性の種々の相をできるだけ完全に収集するものとすればである。第二にこれらの辞典、文法を比較してみよう。どの言語にこれ翻訳不能の語句が多数存在し、文法構造もその言語固有と判るだろう。第三に、種々の分析言語を比較して同一言語がどの表現態様により適するかを調べることが可能である。もっとも、きわめて重度な研究とはいえ、第一と第二の事業がある段階に達しないと着手できない。