うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

日が長くなりましたねと、【全体の構想なしに対症療法をやると、ある場合は、せっかくの叫びを鎮静させてしまって、チャンスがなくなるかもしれない。】


日が長くなりましたね!
学齢児さんの入浴介助が終わっても、空がまだ明るかったので、思わず(笑)写真を撮ってしまいました。


 職員の体調不良で、またまた夜勤を変わりました(笑)インフルエンザではなかったのが、幸いです。
うたたねの看護師さんは、隔離病棟の経験者でもあります。きちんとした指示を頂けるので、親御さんたちの信頼も厚く、ホームの方たちだけではなく、ショートの方々の親御さんたちの相談にも乗って頂いています。
 今のところ、一か所の日中の施設だけ(うたたねに関しては)出ているだけで、他の施設や就労先、学校では流行っていないとのことでした。
学齢児さんのバスも、乗っておられる方の顔がいつも同じなので、一安心ですね。


 今日は早番に入ったり、給与計算をしていましたが、来客などで給与計算が中途半端になってしまいました。先月末からの、緊急受け入れで、それにかかわっている職員さんたちが、少しお疲れ気味なので、なるべく現場に入るようにしています。




  早番の入る前に、早めに出て、ファミマで朝食を頂きながら、本は読みました(笑)
この本を読み終えましたので、ウィニコットに入ります。
 本当に勉強になったし、新しい物の見方を教えていただいた本です。



白柳 整体と関連づけて言いますと、私が施術している感じでは、ケガをして癒着ができたところは時間が止まるようなのです。これはたぶん、「ケガをして本調子になっていないこの部分は、現在使えません。だから凍結させます」ということで、それが瘢痕組織をつくる意味のひとつだと私は理解しています。瘢痕組織はほとんど血液が通わないのですけれど、壊死はしません。ということは、はたらかないけれども保存はしているわけです。 そしてその状態のまま時を過ごすというのはちょっといわば時が止まっている状態なので、たとえば赤ちゃんのときに傷めた骨というのは軟らかいままです。それが、そのまわりの癒着をほどいて、骨が骨としてはたらきに参加しはじめるようになるとして突然は硬くなってきます。そういうことから想像すると、人間の身体というのは、無事に生まれたところからがスタートで、よーいドンで全部の組織が同じタイミングで死ぬように――。



神田橋 一番ハッピーだ。



白柳 ハイ。そうすると、きれいな老衰になるのだろう、と。でもってそれをある一部分が件をして突然そこは‼️若いまま。そうするとその若いままを保つーー保つというか、支えるためにほかの部分は無理をするから、そちらは老いる。そうやって、一個のまとまりのなかで若い部分と老いている部分とができてくると、老いている部分は早く何かしらの形で壊れようとするし、若い部分というのはいつまでたっても仕事に参加できないままで、結果的にはまあ、同じひとつの身体のなかにあるのだけれど、うまくいかないパーツになってしまう。そうやって全体の足並みがまちまちになってくると老いて病が出てくるんじゃないかと思うのです。

神田橋 うん。ボクもそう思う。




白柳 で、先程、先生がおっしゃったように新人一如あるいは新人不二として、心のことを考えるとが神経症のような適応障害で無理をかけている部分というのは、ある種、時間が止まっている部分と理解していいですか?


神田橋 うん。



白柳 そうすると、適応障害という状態になったときは、自分のなかの、なにかしらどこか一部――、本来全部が動くはずの心の一部を殺している状態になるでしょうか。いや、殺してないのが。治ることはあるのだから、押さえ込んでいる状態ですか。


神田橋 うん。寝ている状態。そこだけ寝てる状態。



白柳 寝てる?寝てるのかな笑い。――そうすると、押さえ込んで黙らせている部分が動くようにすれば、適応障害というのはほどけるのですか。



神田橋 う―…ん、動かないようにしていることが、適応して方法でもあるわけだ。だから何そこを動かすとしてよらはよい適応に行くはず――か、いまはまだそれを動かしちゃいかんはずか、というのを、あなたはしているような気がする、整体で。今日はもうこれ以上施術しないでおきましょうとか。


白柳 先生もいっしょですか?



神田橋 あぁ、いっしょです。で、それを選ぶのは、そこの部分にかなり、生体全体が苦痛感を出していれば、ああこれは、動かす時期が来たんだ、ということで。それでそこに苦痛感を持つということは、生体がそこに希望があるというふうに、もうぼつぼつこの適応方法はやめて――。


白柳 動きたいなあ。



神田橋 動きたいなあ、――と思っているけどハウツーはない。それが苦痛感だから。だから苦痛感は、自然治癒力の最低限の表現型である、と。だからそこに、対症療法というのがしばしば、効を奏する意味があるのではないかと思う。痛み止め度外視なんかね。だけど全体の構想なしに対症療法をやると、ある場合は、せっかくの叫びを鎮静させてしまって、チャンスがなくなるかもしれない。〜