今日も寒かったですね.......。訪問したお宅のお庭の水が、またまた、凍ってました....。しかも、結構分厚い......。
今日も朝から夜までずっと車に乗っていた感じです(笑)
看護師さんから帰りなさい!と言われて(笑)20時過ぎに帰宅させられました(笑)自分の方がきっと、働き過ぎ.......。
本は、学齢児さんのバスが少し遅れたので、沢山読めました。
「抱え」、「揺さぶり」、「なじみやすい」は、現場で使えそうですね。詳細は本を読んでくださいね!
〜白柳 ある程度、患者さんにもご家族にも我慢する部分があって折り合わせていくべきだとするか、あるいは患者さんがのびのびできればそれでいいとするか。のびのびできればなんでもいいとだけ考えれば野放図になるかもしれないし、でも折り合えとだけ言えば、我慢を強いることになるかもしれない。さまざまあるだろう振り幅のなかで、何をゴールとするのか。ゴールとまで言わなくても、その都度その都度の判断目標を何に置いておられのか。そういったことを教えてほしいと言われました。 あと、「先生の技術を習得しようと思っても、何から勉強すればよいかがよくわからない」というご意見もありました。だから、「どこから手をつければいいかがその順番を教えてほしい」と。
これは、私の技術を考えるときもそうなんですけど、結局、私はカイロプラクテイックの知識と中国医学の知識と西洋医学の知識、それらを全部ごちゃまぜにして自分なりに消化して、それで自分の技術を組み上げました。鍼灸は、「鍼・灸」という道具を使ってする治療法であり、治療理論ですから、わからないの技術を理解するためには、必ずしも中国医学の全体をまるまる勉強する必要はありません。でも、かといってまったく知らなくていいとも思えない。じゃカイロプラクテイックと中国医学と西洋医学、どれから順番に、どの程度まで勉強すれば、効率よく私の技術の全体が把握できるのか、というと難しい。いったん組み上がったいまの私の技術をとりあげて、何から学べばわかりやすいのかは、うまく答えるのが難しいんです。
神田橋 難しいね。
白柳 はい。それであるお医者さんは、先生がむかしに書かれたカルテをご覧になっておられまして、極めて「ふつう」の精神科医の時期を丁寧に過ごされた後で、独自の仕方にたどり着いておられることがよくわかった、はじめから変わったことをされていたわけではないのだ、とおっしゃっていました。 「いわゆる“ふつう”の精神科医の仕事を丁寧に積み重ねてこられたなかで、なじまない技法なり理論なりを捨てて、合うだろうを取り入れて、ということをされているから、できあがったものを見ると何から学べいいのか、何から手を繋ぐつければいいのかがわからない。けれども、結果的には、ひとつひとつのことをきっちりしてきたに過ぎない、そういう部分があるように思う」とそんなようなことを言われました。 ですから当初私が思っていた、大枠を了解すれば大丈夫という見通しは、心理士さん・お医者さんの要望とは、ずれていたのだな、と納得しました。
神田橋 そうなんだよ。難しいね。
いま、思い返してみると、当時、主流になっていた、オーソドックスな精神医学と技術。それを身につけてもそれに沿って動いていくことをしながら、自分のなかに湧いてくる異和感、ね。異和感にとてもとらわれていたような気がするね。そして、異和感というものにとらわれていたというと、異和感は、揺さぶるわけだよね、自分をね。
白柳 はい。
神田橋 それで、まあ、みんなに議論をふっかけたりなんかする――。そうすると、議論につきあってくれる集団があるんですよ。仲間とか、先輩・後輩とかね。それが、「抱え」の原型だよね。「おまえの言うことも一理あるな」とか、「だけども――」とか、相手をしてくれる。封殺せずに相手をして、「違う」と言ってみたり賛成してみたりして、ごちゃごちゃやってくれるなかに漂っている「抱え」という雰囲気がある。それが原型だと思う。そしてその原型が、ボクのなかでうまく作用していったのは、実はその「抱え」のなかで、ごちゃごちゃ言いたいことを言って、はみ出したりなんかしながらも抱えられているという場はありよう、というのがボクにとってはもともとなじみ深いものだった。そこが、愛着障害の人の不幸とつながる。たとえそういう場が設定されても、それがもともとなじみ深くないと、新しい体験、はじめての体験になるから、今度はそれは「揺さぶり」になるわけだ。
だから向こうにとって、すでに体験記憶のなかに存在しているもの――、それと、さして異和感のないような場を設定する。そういうことが「抱え」なんだ。 「受容」ということを言うでしょ。受け入れる、の受容。その「受け入れる」という言葉が、少し粗雑に使われているんだろうと思うの。「受け入れる」をやめて、「なじみやすい」に替えた方がいい、と思う。〜