うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ほんまに、番犬にならへんやんかと、『コーラが少し』と、【人間の心が、1つまた1つと到達することを試みるべき層構造から成っているとは私は思わない。転移において繰り返されるのは、内的対象についての葛藤なのである。】


 今日は、志願の(笑)早番で、綺麗な朝焼けを見ながら出勤しました。
まあ、実力のある職員さんだったので、お手伝い程度で、一段落ついたら、一気に掃除を済ませて(笑)インフルエンザの予防接種に行き、うたたねの増築か?改修か?で設計士さんが来てくれたり、パソコンの件で、ウェブデザイナーさんが来てくれたりと、職員さん達も大忙しでした。
 本当は休みなので(笑)一度帰宅して、自転車置き場に自転車を置こうとしたら、ひーひー王子が爆睡していて、こんなに近くに寄っても起きませんでした(笑)
はんまに番犬には、なれませんね!宅配便のおじさんは、ジャーキーをいつも持っていて(笑)ちらつかせながら玄関に来るので(笑)簡単に尻尾を振っています.......。

 中学生の時に、インフルエンザの予防接種をした日に、高木麻早のLPを買いに、堺東まで走って行ったら(笑)夜に具合が悪くなり、2日くらい休んだこともありました。
そのLPは、聞いたら具合が悪くなったのを身体が覚えていて、暫く聞けなかったのも、今となれば笑い話ですね(笑)
 ふと『コーラが少し』を聴きたくなりました。https://youtu.be/Z12Cllp2Emc


 本は、早番にもかかわらず(笑)早く出て(5時にw)うたたね横のファミマでコーヒーを飲みながら読みました。
アップは、昨日読んだ箇所ですが.....。
 下記は、積み重なって行くのではなくて、分割されて存在している対象が、解釈によって統合される時がきたら、一つの塊(人格?象徴?)となると言うことを書いているのでしょうか?一人で読んでいると、限界を感じてしまう時が多いですね......。
 浜松で、読み合わせをしているとの話を聞きましたが、アカデミックでない人間の参加は難しいでしょうか?もう少し勉強してから、そういう場所にも勇気を出して行ってみたいと思います。でも、現場で応用できることが沢山あります!

『人間の心が、1つまた1つと到達することを試みるべき層構造から成っているとは私は思わない。転移において繰り返されるのは、内的対象についての葛藤なのである。』



分析家は、自分の反応を自分自身に由来するものと患者によって刺激されているものとに区別する必要がある。このことはまた、解釈に影響しよう。誤解を避けるために強調しておきたいが、分析家の思わず知らずの振る舞いが分析において治療的であると言っているのではない。それどころか、それらは分析作業を難しくする。このことは患者を理解しコンテインすることをさらに推し進めるために気づかれるべきである。 要約してみたい:血が通っていて、患者に情緒的な確信をもたらす解釈であるためには、解釈は分析家との関係での今、ここでの当面性から表現させてなければならない。その一方において、解釈を文章にするときに、患者の無意識の空想に表現されているのは彼の過去であるという見解を心に抱いておくべきである。たとえば、私が提示した症例において、私がその“はい”を解釈し始めたとき、私は患者の感情と思考を彼の早期の母親との間柄のサインとして心の中で吟味していた。ある時点でこの部分は患者に向けて明確に述べられ、彼の現在の体験と結び付けられるべきである。〜


〜私はここで、数十年間分析家の心を占めている問題について述べたい――すなわち、いわゆる“深すぎる”too deep解釈のことである。もし解釈は転移状況―逆転移、理論的背景、患者について知っていることの助けを借りて分析家によって理解されるものとして――での熱い感情の中でなされるべきであるということが同意されるのなら、各々の正確な解釈は患者の感情の深みに触れることを狙っているのではそれは深い解釈であるということもまた同意されるだろう。人間の心が、1つまた1つと到達することを試みるべき層構造から成っているとは私は思わない。転移において繰り返されるのは、内的対象についての葛藤なのである。それらの葛藤は分析家との間で体験されるので、セッションの中でのある反応様式からもうひとつのそれへの患者に変換を通して明るみに出てくる。これらの変換のなかに、彼は自分の不安や、それらに対して作動させる防衛を表出している。この葛藤こそを、現れてくるときに私たちが解釈するのである。深すぎる“解釈として”しばしば記述され恐れられてきたものは、おそらく転移のなかの生き生きとしていて利用できるものを捕らえそこねている誤った解釈であると私は信じる。〜