うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

年末チャリティーの打合せと、今日の日中と、【私は、外科医のようにばらばらになった心を縫い合わせてもとに戻すことができるとは思いません。ときには、その過程を援助することはできますが、主に私たちは断片化が自然に元に戻れるようにしなければなりません。】


 今日は、朝から神戸館さんで、年末チャリティーの打合せをさせて頂きました。
出品して頂ける作品が、なんとか揃ったとのことで、本当に感謝しかありません。
 今回で、35回になるそうです!
写真の絵は、去年から沢山出して下さっている、伊勢神宮の宮大工さんの作品とのこと。
四条丸山派をきちんと習った方だなと思いました。若い時分、先輩に今尾景年の模写をしろ!と言われ、いやいやしていたのを思い出し(笑)松を見ていると、今尾景色年の付立を思い出しました。
 豊橋にも、立派な四条丸山派の絵が沢山残っているお寺があり、8月に一般公開しているので、そろそろでしょうか?一度見に行きましたが、筆が素晴らしかったです。



 今日は、休みでしたが(笑)貴ちゃんに夜勤明けの土曜日に、アプレシオに行きたいと言われて、約束したのでお昼前にうたたねに行き、他の方も一緒に行きました。
帰ろうとしたら、蔵王山に行くんだよね!とか、アイスクリーム食べに行くんだよね?とか(笑)で結局、すろーじゃむの大きなお風呂に入ることになり、お湯が溜まるまで、近くのアイスクリーム屋さんに行きました!
 本当に暑いので、食べたくなる気持ちは分かります!

 日中賑やかだったので、時間の流れで(ショートの方の出入りの関係で)一グループになったり二グループになったり、三グループになったりしていました。
おっちゃんの最後の仕事は、池ノ原での散歩とお薄を頂きに行きました。こちらも涼しくて出たくなくなりましたが(笑)お風呂の時間が迫ってきたので、お薄を頂いて戻りました。
 全員写せなくてすみません......。


 


 アップは、一昨日読んだ箇所です。
本当に参考になります。



私は、外科医のようにばらばらになった心を縫い合わせてもとに戻すことができるとは思いません。ときには、その過程を援助することはできますが、主に私たちは断片化が自然に元に戻れるようにしなければなりません。サンドラが見せてくれている状態は、子どもの持つ統合または認知的能力、あるいは精神分析用語でいう自我と摂取の力の程度の問題と関係しています。それを用いることで子どもは、体験について考えることができるのです。




〜Kanter(1984)は『国際精神分析評論誌(The International Review of Psycho-Analysis)』において、分裂病患者の外来治療と社会復帰がますます強調されるにつれ、「再社会化(resocialization)」の概念がしばしば用いられるが、まれにしか定義されたり明確化されないと指摘しています。彼は、これはおそらく、精神分析の扱う分野と精神科での社会復帰との間の対話が欠如していることからくると示唆しています。彼の論文は、精神分析的な発達の視点を用いて、精神科のデイケアに来る慢性分裂病の成人患者の中に「展開していく精神内界的並びに対人関係的諸過程」と彼が呼ぶものを吟味することで、そのギャップの橋渡しをしようと試みています。その発達の視点は、患者の人格における欠損に焦点を向けます。その欠損は、「特に家族外の社会環境との関係における自我のスキルに関する、潜在期の課題を十分にこなしてきていないこと」から生じます。Kanterはまた、彼のデイケア分裂病患者が空想を持ち始め、それを病棟の他の人と共有し始めることは、それがたとえ病的な冗談の類のものであっても、幻覚からの相当な進歩であると主張します。これは、ベータ要素が夢を見ることや考えることに適した素材に変形されうる過程に関するBionの着想からそれほど大きく隔たっていないように思われます。Kanterは、冗談はどれほど病的であろうとも、それと幻覚との区分は尊重される必要があると確信しています。
 サンドラの場合、私が示唆しているのは、想起の仕方が分かるまで彼女は虐待を想起できないということです。アランの場合、自分になされた現実の虐待や暴力について考えることがそもそも可能になる前に、報復的虐待者ではない対象、また空想と行為との間の相異が分かる対象という感覚を、彼は築き上げる必要があるのかもしれません。ある子どもは、少し忘却をし始めて自分の虐待されていない部分を築き始める一方で、耐えられる安全な状況で想起を始めなければならないかもしれません。ある子どもが虐待について話し、虐待だけでなく恐怖やそしてついに怒りさえ本当に想起することができたのは、治療が始まって数ヵ月経って治療者が自分を守ってくれていて学校の面接室へ向かう途中の廊下で危険な少年たちを「やり過ごす」ことができるようにしてくれることが分かった後でした(Sinason 1986)。虐待の恐れがあらゆるところにある間は、HarmannやPynoosが述べるような浄化的な意味の想起は不可能化もしれません。
 3番目の状態または段階は、子どもが虐待のない世界があることを信じることができ始めたかもしれないときや、虐待が起こる以前にとにかく比較的良好な心の発達が子どもに起こっていて信頼が決して完全には破壊されなかった場合に生じます。しかし、虐待されていないこの側面が強化されるためには、子どもは時には忘却することを許されなければならないかもしれません。前学童期に性的に目覚めさせられた子どもを扱ってみると、潜在期の「穏やかさ」の意義を新たに理解するようになります。被虐待児が、非性的で虐待のない世界への関心を発達させ始めると何が起こるのか考えるのは興味深いことです。彼らは、病態が改善しつつある精神病や境界水準の精神病の子どものように、より正気になるにつれて、空想や象徴から念入りに防衛されている必要があるようです。