うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

「てぃーんず ぶるーす」と、【過去においては、精神分析的心理療法家は、投影しているのは自分自身の怒りであると感じたかもしれないと思います。現代では、子どもはその体験を自分よりもうまく耐えることのできる他者に包容してもらう必要があるという理解が広まっています。】

 今日は、夜勤明けで、アイレックスが開くまで、本を読んでいました。
アップは、昨日読んだ箇所ですが、何かを突き付けられた感がぬぐえません.....。
 酷い虐待を受けた方の支援は、させて頂いたことはありませんが、重い障がいをお持ちの方々には、虐待の様な感じになってしまう状況は、おそらくありますね。
速効性が求められる時代ですが、『それぞれの統合は、他の虐待の側面、つまり他の統合が忘却される余裕のある条件下で起こります。』なので、『私が提起したいのは、ある一つの考えは、しばしば非常にゆっくりとした緩やかな過程によって考えうるものになることです。その過程を急激に進めることはできません。』なのですね。

 強度行動障害をお持ちの方々も、時間をかけてじっくり的を得た支援をし続けることができたら、必ず改善していくことができます。諦めず、速効性を求めないことが重要です。速効性を求めると、何かのせいにしがちで、薬が変わったから、環境が変わったから、あの職員が辞めたからという図式に陥って、中々抜ける事が出来なくなってしまいます。心に触れることを目標にして、日々支援させて頂いています。


 今日は、常勤換算を完成させて、原田真二の「てぃーんず ぶるーす」を、アコースティック・ギター用にアレンジしましたが、完成は出来ませんでした(笑)主要なメロディーだけできたので、今日はこれくらいにしといたります(笑)。やっとこの曲の素晴らしさが分かったって(笑)何十年かかったのか?(笑)夏らしいメロディーラインが、ふと頭をよぎったので、アレンジしてみました(笑)。関係なかったですね.....。気持ちよく弾けています。


 もっと関係のない画像(笑)。帰宅したら、ピンタレストが来ていて、お笑いのカテゴリーを開いてしまいました!きっとこれを作った方は、大阪人(笑)神戸民は、ないのでしょうか?





私が提起したいのは、ある一つの考えは、しばしば非常にゆっくりとした緩やかな過程によって考えうるものになることです。その過程を急激に進めることはできません。どのように被虐待児が虐待と折り合いをつけるのを援助するのかという問いに対して、このことが意味するのは、「想起」は多数の小さな統合を含むかもしれないということです。そして、それぞれの統合は、他の虐待の側面、つまり他の統合が忘却される余裕のある条件下で起こります。虐待の探索は、一度に一側面だけである必要があるかもしれません。例えば、自分がそれについて何も言えない状況で、横になって何かしろと言われるのはどんな気持ちのすることでしょうか。そんなことをするのは嫌で、またそれについて何も言えない状況で、服を脱げと言われるのはどんな気持ちのすることでしょうか。誰かにそのような命令をするのはどんな気持ちのすることなのでしょうか。他の人はそんな状況でどのようにふるまうのでしょうか。これら全てが人形の体験として探索されるかもしれませんが、多くの場合、(その子の虐待の体験として解釈せず)人形の体験のままにしておくことが許されるべきです。



もし一見無害で非外傷的な新しい場所のおかげで、子どもが何とかできる消化可能な量、あるいはStrachey(1934)の言う「最小限の服薬量」で自分の心的外傷について考えることが可能になるならば、そのような場所はより安全な場所ではないでしょうか。治療者は、治療の中で、患者に心的外傷の体験について一挙に考えさせるように努めるべきなのでしょうか。あるいは子ども自身のペースにより密接についていくべきなのでしょうか。Freud(1917)は、喪の仕事について、ひとつひとつの記憶はそれぞれ扱われ、悲しまれ、諦められなければならないと言いました。同じようにして、特に慢性的であった場合、虐待の一つ一つの側面あるいはその体験の一片一片を、一歩ずつ消化する必要があるかもしれません。私は、このことは非常に早期に虐待を受けて心的かつ認知的な損傷を被った子どもに特に当てはまるのではないかと思います。そのようにひどく損傷を受けて鈍麻している子どもは、まず〈私〉という感覚、〈あなた〉という感覚、〈彼〉という感覚を持つために、自分自身のばらばらの断片がまとまる必要があるかもしれません。そうしてようやく初めて、「彼(ある人)が、こういうことを私にしましたが、その人はそんなことすべきでなかったと私は感じました」ということが分かるようになるのです。この言明自体が、多大の心的発達を必要としています。最低限、この力を築き上げることを促すことで始めなければならないかもしれません。 同じように、分析家が患者のために望まれない感情を長い間包容する必要性に関する理論は、強力な投影を扱う上で重要です(Joseph 1978)。投影や逆転や置き換えなど、より機械的な防衛論はときとして、投影されたものはほとんど定義上その住むべき場所に返される必要があるという含みを持ちがちですし、逆転されたものや置き換えられたものについても同様です。




被虐待児が逆転移の中で私たちを虐待し始めるとき、その子が自分の虐待から逃げていると治療者が伝えるのはどのような場合で、治療者は黙ったままでいて、その子がその意地悪いことを自分にすることを楽しんでいるようであるという事実についてのみ話すのはどのような場合でしょうか。




過去においては、精神分析心理療法家は、投影しているのは自分自身の怒りであると感じたかもしれないと思います。現代では、子どもはその体験を自分よりもうまく耐えることのできる他者に包容してもらう必要があるという理解が広まっています。こうしたことはしばらくの間続くかもしれませんが、何ヵ月、あるいは何年もかけて初めて、その体験はあまり圧倒的なものでも消化不能なものでもなくなるのです。