うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

やるな100円ショップ!と【欲動理論における問題点とBion の「K」の必要性――いくつかの研究による証拠】


簾を買ってこいと(笑)親分に言われ、100円ショップに行ったら欲しいなと思ってしまうものが沢山ありました(笑)
一番下の器は、買おうかな?って少し迷いましたが(笑)324円は自分には大金(笑)なので、並べて写真をとるだけにしました.....。
 代わりに?療育キャンプで、暑かったら頭に被る日本手ぬぐいを2枚買いました。
知らぬ間に7月になっていましたね! 今年も半分が終わってしまいました.....。予定していた本が、メルツァーが難しくて手間取ってしまいました。が、非常に勉強になったので、良かったと思っています。焦っても良い結果はでません。

 早番でしたが、6時前にうたたね横のファミマに行き、6時30分までコーヒーを飲みながら本を読んでいました。


 下記は、毅然とした態度で支援をするのと同時に、【快感は、心をかき立て注意を喚起し活気づける力においては、痛みに劣るものと考えるべきではないのです。】にある様に、気持ちよく過ごして頂くということも考えないといけないことを示唆してくれました。

『つまり、否定的で欲求不満をおこさせる体験こそが、主に思考を教え刺激するものであるということです。』
『私は単に、欲求不満が唯一の刺激を与えるものではないということの証明を示そうとしているだけなのです。快感は、心をかき立て注意を喚起し活気づける力においては、痛みに劣るものと考えるべきではないのです。』



欲動理論における問題点とBion の「K」の必要性――いくつかの研究による証拠
 ロビーとの臨床のおかげで私は、快と苦痛、錯覚と脱錯覚(disillusion )、在と不在といった古いタイプの二元論が、限定されたものであると考えるようになりました。共生あるいは錯覚を、快感と同等視することの有用性は、Klein によって疑問視されてきましたが、私もまた、次の見解を疑問に付したいと思います。つまり、否定的で欲求不満をおこさせる体験こそが、主に思考を教え刺激するものであるということです。子どもの発達の研究者は、これらの疑問両方に実験を用いて取り組んできました。とくに興味を引き独創力のある実験が、Wolffによって計画されましたが、それは両方の疑問に同時に取り組むものでした。それは、欲動満足を強制されることのみが外界への興味を刺激すると仮定する、初期の心理学と精神分析の考えに、重大な疑問を投げかけるものです。これはBion の「K」という概念、すなわち世界を知りたいという生得的欲求という概念を支持するように私には思えます。Wolff は、子どもが「瞳を輝かせている」「覚醒不活動状態(alert inactivity )」を、生理学上の尺度を用いて注意深く定義しました。子どもは適切な対象に対して、目の動きと、視覚的、聴覚的に対象を追う動きとを協応させます。別の研究ではこれを、「何それ?」という視線、と呼びました(Eisenberg 1970)。Wolffは、これらの状態は、Kleitmanが「自ら選んで覚醒している状態」と呼んでいるものと同等のものだと示唆しています。Wolffの研究以前には、Kleitmanは、身体的不快の圧力がかかって、必要にかられて覚醒しているという類の覚醒状態しかない生後数週間の後に、この状態が現れると考えていました。Wolffは、これらの覚醒不活動状態、つまり自ら選んで覚醒している状態は、授乳の後か、排便の後にしかあらわれない、すなわち、身体的に不快な度合いが最小限の時にしか現れず、それは苦痛の状態からははっきりと区別される、と言っています。彼はまた、生後最初の数週間においてはそういった状態は1日に30分以上は続かないし、これが今まで研究されてこなかった理由だろうとも言っています(Wolff 1965;Kleitman 1963)。私がみたとろこ、以上の研究では、これらの状況で赤ん坊は学ぶよう駆りたてられているのではなく、学ぶことができるほど解放されている、ということを言外に意味しているのです。私は、欲求不満は思考を刺激し得ないと言っているのではないことを、明らかにしておかねばならないでしょう。私は単に、欲求不満が唯一の刺激を与えるものではないということの証明を示そうとしているだけなのです。快感は、心をかき立て注意を喚起し活気づける力においては、痛みに劣るものと考えるべきではないのです。