うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ぎょぎょランドと、イチゴと、【この夢想のなかで、母親は、苦しんでいる赤ん坊から投影される衝撃や混乱を感じ、しかし、それを包容し、より修正された形にして赤ん坊に返すのです。】



今日は、ぎょぎょランドまで行って来ました。
昼食は牛丼ということで、携帯で検索したら600m先にあるというので、ナビに住所を入れて行ったら、山の中に....。着いた先は、高速道路の豊川パーキングエリアの吉野家でした(笑)外からでも入れるのですね!
 牛丼を頂いて帰って来ました。



 今日は、本当は休みでしたが、初めてご利用される方が急に入られたので、様子を見させて頂いて、支援方法を考えさせて頂こうと、志願して出勤させて頂きました。何とか引き継げそうなので、引き継いで夕方は渥美の送迎に行って来ました。半夏生が生えていた場所が埋め立てられてしまっていて、楽しみが一つなくなりましたが、もうすぐ蓮の花が咲くので、一つ頂いてこようと思っています。
 ブドウの夏季剪定を行い、来年に向けて母枝を定め、思い切って弱い枝は切って来ました。
イチゴは、新たしい株がどんどん出て来ていたので、空いている場所に根付くよう、小さな石で(笑)固定してきました。まめに手入れをしなくていい物だけが残っています(笑)


 今日も早めに出て、マックでコーヒーを飲みながら、携帯に打ち込んでいました。(笑)これでいつも電池が半分なくなってしまいますが、充電器があるので、何とか一日はしのげます。電話やメールが多い時はそれでもなくなってしまいますが....。
 今回は、復習になっていますが、重要な箇所です。
親分が言っていた、長谷川きよしの『卒業』を約1時間でアレンジしましたが、本当に音楽の構造を理解していたら簡単にアレンジできます。まあ、弾き込むにつれて、ここはこうしたほうが....的なアイディアが浮かんで来て、時間をかけてしっかりとしたアレンジが出来て行くのも楽しみの一つですね。今日は親分の誕生日だったので(笑)いつもダメだしばかりしているので、ちょっとよいしょしときました(笑)
 『歌うたいのバラッド』も大分しっかりしたアレンジになってきました。支援もそうだと思っています。どんな道でも魔法なんてなく、どれだけそのことについて真剣に向き合ってきたか?で結果が出て来ます。
 そう思うと、自分がしんどくなってきますが.....。


精神分析的な態度――中立性、包容、そして再生
 中立(neutrality)という精神分析的態度には、長い、すぐれた、十分に吟味されてきた歴史があります。Freud は、分析家が、抑圧的、指導的機能あるいは勇気づけるような機能ですら、それを果すことになった、患者の自己知、自己実現の過程を阻害することがあると述べています(Freud 1912)。それに続いて、分析家たちは、文字通り患者が誘惑する危険だけでなく、患者の依存性ゆえにそして転位感情の強力な性質ゆえに、かなり特権的でそれゆえ非常に責任ある立場にいる分析家の側が、より目立たないものの、同じく強力で誘惑的な態度を取ることの危険について警告しました。保証や勇気づけ、「修正情動体験」と呼ばれてきたものは直ぐに患者が、自分の真の内的・想像的世界を、それがいかに残酷で恐ろしいものであっても、真の変化を生み出すことにつながる表層的ではない転位関係のなかへ持ち込むことを阻害すると、分析家の多くが考えてきました。
 Bion は、分析家の機能についていくぶん異なったモデルを提供しました。彼の包容(containment)という概念は自閉症あってはならない態度というより、どのような態度であるべきかをより強調しています。一見しただけでは、それはFreud の中立性の概念に非常に近いように見えますが、しかし、実際は、異なる理論的支柱すなわち対象関係のそれに由来しています。中立性がより静的な事態を示唆するのに対し、包容ははるかに力動的な概念です。その概念が意味するところは、さまざまな情動の力が調和しつつ動くように、抱え、対処することであり、また、そういったバランスのとれた抱えが達成されるやり方です。それは思慮深い情動性と情動的思慮深さという形であってもこれらの情動の力について分析家のなかでなされる仕事について言及しているのです。Bion は、これを母親の夢想(reverie )と呼びました。この夢想のなかで、母親は、苦しんでいる赤ん坊から投影される衝撃や混乱を感じ、しかし、それを包容し、より修正された形にして赤ん坊に返すのです。のちにBion は、はじめの包容の影響の結果として母親や分析家のうちで進行する、その修正過程に一つの名前を与えました。彼はそれを変形(transformation)とよび、芸術家の活動にたとえました。彼は「解釈は変形である。…ある仕方で感じられ、記述された体験が、別のやり方で記述されるのだ」と述べています(Bion 1965:4)。