うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

笑顔と、【大切なのは、必要な強さの注意のレベル(たぶん、ウィニコット[Winncott,D.]のいう初期の母性的専心[primary meternal preoccupation ]のようなもの)で応答することである。】


 今日は、赤羽根のロコステーションに行って来たようです!
お天気も良くて、皆さん(全員写っていませんが)楽しそうだったとのことでした!
 いい顔しています!

 おっちゃんは、夜勤明けでしたが、パソコンの状態が悪く業者さんに頼んで見て頂きましたが、まだ本調子ではない様子。ウィルスソフトがPCと相性が悪いのでは?との見解を聞いて先程、戻ったので最終的なチェックは親分なので、行ってみないと分からないですね......。

 現場にいたら現場に入ってしまうので、本も読めず、トシちゃんとペットボトルを捨てに行ったり、まりちゃんの昼食を買いに行ったりで帰宅が15時40分になってしまいました.....。

 帰宅してから、先日読んで参考になった箇所のアップです。

 下記は、現場においてもそう思う時が、多々あります。

自閉症の子どもは、皆それぞれ異なっており、瞬間瞬間でも異なるものだが、ロビーのように深刻な心的空虚感のレベルでおいては、侵入的に関わることが貴重なものになる可能性がある。』


 下記とその下の?下記は同じ内容のように感じますが、その方に合った年齢(退行している年齢)での支援が大事で、【“生きる仲間(live company)”なのである】的な関係が支援にとって大事なことの一つでは?と思ったりもしますが、冒頭にある、『自閉症の子どもは、皆それぞれ異なっており、瞬間瞬間でも異なるものだが、ロビーのように深刻な心的空虚感のレベルでおいては、侵入的に関わることが貴重なものになる可能性がある。』に合わせて臨機応変にできないと意味がないですね.....。
自分みたいに初学者でも、本当に分かり易くてためになる本です!

『大切なのは、必要な強さの注意のレベル(たぶん、ウィニコット[Winncott,D.]のいう初期の母性的専心[primary meternal preoccupation ]のようなもの)で応答することである。』

『最初赤ちゃんの注意を引きつけるために母親がすることは、いったん注意が向けられてからそれを支持し維持しようとするやり方とはかなり違っている。最初の段階では、赤ちゃんを心地よくさせたり、驚きの反応を包容したりすることによって、母親は内部と外部、双方からの妨害を軽減しようとする。そして視線を合わせるために、赤ちゃんの目の高さに自分の頭を動かす。次の段階では、過剰になり過ぎるのを避けはするが、それでも赤ちゃんの関心を得ようとしはじめ、その関心を持続させるために言葉と愛撫を増やしたり、強くしたり、拍車をかけていく。そして赤ちゃんの関心が遠のくと、次から次へとすることを変えたり、刺激をなだめに変えたりと、常に即興的な対応をする。これが“生きる仲間(live company)”なのである。』



◆内的対象の欠陥が治療に及ぼす影響 ―子どもの心を豊かな世界に開かせ、前概念を拡充する

事例1

自閉症の子どもは、皆それぞれ異なっており、瞬間瞬間でも異なるものだが、ロビーのように深刻な心的空虚感のレベルでおいては、侵入的に関わることが貴重なものになる可能性がある。〜

〜大切なのは、必要な強さの注意のレベル(たぶん、ウィニコット[Winncott,D.]のいう初期の母性的専心[primary meternal preoccupation ]のようなもの)で応答することである。このように重度の障害をもった子どもに対して、その過去についての説明的解釈を与えようとする精神分析的セラピストを批判する認知学者は、ある意味正しかったのである。過去へ注意をムケルよりも、今ここでの生きた関係の質に、より細やかな注意を向けることで、自己と内的対象の両方の社会的欠陥を修正しはじめることができるのだということを、割れは学ばねばならなかったのである。〜

ブラゼルトン(Brazelton,T.B)らの研究では、赤ちゃん(生後2〜20週)と何かしてみるようにと教示されたときの母親の様子が記されている。最初赤ちゃんの注意を引きつけるために母親がすることは、いったん注意が向けられてからそれを支持し維持しようとするやり方とはかなり違っている。最初の段階では、赤ちゃんを心地よくさせたり、驚きの反応を包容したりすることによって、母親は内部と外部、双方からの妨害を軽減しようとする。そして視線を合わせるために、赤ちゃんの目の高さに自分の頭を動かす。次の段階では、過剰になり過ぎるのを避けはするが、それでも赤ちゃんの関心を得ようとしはじめ、その関心を持続させるために言葉と愛撫を増やしたり、強くしたり、拍車をかけていく。そして赤ちゃんの関心が遠のくと、次から次へとすることを変えたり、刺激をなだめに変えたりと、常に即興的な対応をする。これが“生きる仲間(live company)”なのである。こうした研究には、内的対象の欠陥もあると考えられるような注意欠陥障害やコミュニケーションの障害の子どもたちと関わっていくうえでも、多くの学ぶべきことがあるのではないかと思う。つまり、積極的なアプローチは、自分で命を取り戻すために助けが必要な受身的な患者を、命ある世界に誘い出すことを必ずしも意味するのではない。むしろ、ほとんど植物状態の患者に命を吹き返させようと、名前を呼び続けることに似ているだろう。〜

 〜このように、近年のタヴィストックの自閉症ワークショップでは、より穏やかな積極的アプローチを学ぶに至った。非常な気配りをしながら、我々はアイコンタクトをもつために、侵入的になりすぎないようにではあるが、場合によっては、少し子どもを、“追う”ことさえもする。子どもに手が届くまでそう遠くはないが、脅かしてしまうほど近くはない、心理的にも身体的にも適切な距離を見つけるのは非常に重要なことである。適切な距離、声の調子や話す速度などの感覚は、友好的な提案をすべて拒否したり無視したりするような10歳児に話しかけるときには、そう自然には出てこないだろうが、小さな赤ちゃんに話しかけるときには、かなり自然に生じるものだ。
 ここで私は我々が赤ちゃんの認知的欠陥や情緒的無気力さ、あるいはその両方の“原因”が養育者のあると示唆しているのではない、ということを明確にしておきたい。しかし、無気力に生まれついた赤ちゃんや、あるいは何らかの理由によって他者のコンタクトからふっと注意をそらしてしまうようなタイプの赤ちゃんには、活発なタイプの赤ちゃんよりも、よりしっかりと命綱を引くことが必要であるとはいえよう。このような赤ちゃんは、投影と取り入れの過程が弱いと精神分析家が表現するような子どもなのかもしれない。つまり、警官から学んで取り入れる力が弱く、不快感や辛さを正常な対人的方法や表現方法で払いのける力が弱いのだ。ここで我々が示唆するのは、いかなる要素の組み合わせが、その子どもを自閉的な小道へと向かわせたとしても、そこから回復し改善するための条件は、たぶんかなり早期の、個々のレベルに応じた相互作用能力を促進させる領域にあるだろうということである。そうすることで、精神生活に不可欠である正常なやりとりが、始動するのである。