うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

誕生会と、縁の下の力持ちと、桜と雑草と、【このような状況で我々に助けを求めてくる親は、わずかでも子どもが変化するのではないかという希望をもっているのかもしれないが、また一方では、発達過程を時間をかけて見ていくことはせずに、即効性で奇跡的な“治療”を望んでいるのかもしれない。】


 今夜は、貴ちゃんの誕生日会(昨日でしたが)で皆さんでガストに行かれた様子。
はるくんは、行くところ行くところで、自分の誕生日はここが良いと言っています(笑)
 日常性を離れるのは誰でも楽しいものですね!土日も結構外出していますが、平日の夜に外出するというのも、刺激的なのかもしれませんね!


 昨日アップしようと思っていたのに忘れていた写真がありました。
いつもバンドクラブの準備は、おかもっちゃんとやっていて、おかもっちゃんが体調不良で休むと、おっちゃん一人で準備しないといけないので、大変です....。
 何も言わずに黙々と手伝ってくれる、おかもっちゃんは、文字通り、縁の下の力持ちやな〜と、改めて思いました。


桜がせっかく満開なのに、お天気が優れません.....。
今日は休みでしたが、事務仕事が山積しているので、事務所まで歩いて2往復しました。
 桜がきれいだったので、桜が咲いている下を歩いてきました。



 桜を頂くわけにはいけないので、道端にあった雑草を手折ってきました(笑)
仕事場に飾ってみましたが、中々の存在感ですね!花器が本当にないので、あり合せのものに取り敢えず入れてみました(笑)


 朝早く事務所に行ったので、必要な書類を頂いて、マックでコーヒーを飲みながら少しだけ本を読ませて頂きました。事務仕事をやったり、ギターを弾いたり(今日はジミヘンばかり)していたら、あっという間に夕方...。
 明日のケース会議の資料を完成させようとまた、事務所に行きましたが、会計担当者が頑張ってくれていたので、また、必要書類だけ頂いて帰宅しました。


 下記は、マックで読んでいた箇所です。
本当に大事な事ばかり出て来るので、緊張しながらの読書になってしまっています(笑)


 下記は、本当にそう思います。

『とても強い不安を抱いていたり、、絶望していたり、敵対的であったりすると、親は、このような感情を言葉を通してではなく、しばしば投影を通じて伝えてくる。こうして投影された不安や敵意、絶望に向き合うと、我々は、一方では冷静な思考を保ちながらも、もう一方では性急な判断を下したくなる気持ちが起こってくる。そして、これを何とか避けようとする気持ち圧倒されてしまいそうな、非常に困難な体験をすることがある。たとえば、家族の中の、誰のどのような行為が、誰のどのような状態の原因となっているか、などという結論めいたことに飛びつきたくなるのである。』


 スピードが求められる時代.....。だから認知行動療法的な、速効性がある療法がもてはやされるのでしょうか?行動療法が悪いと言っているのではなく、薬のように、速効性のある物が必要な時はありますし、それが効いたら長期的なことを考えて行かないといけないのと同じだと思います。
 だから、少し先を見ながら、その方に一番ベストな目標を立てて、じっくり取り組んだ方が、その効果が長続きすると思われますし、ゾウの時間・ネズミの時間というのがその昔流行っていましたが、組織も支援も徐々に大きく・強くなっていく方が長続きするように思っています。魔法なんてありません。 


『このような状況で我々に助けを求めてくる親は、わずかでも子どもが変化するのではないかという希望をもっているのかもしれないが、また一方では、発達過程を時間をかけて見ていくことはせずに、即効性で奇跡的な“治療”を望んでいるのかもしれない。』




第3章 自閉症の子どもの親面接において、親のトラウマを扱う重要性
トルーディ・クラウバー
◆はじめに
 〜親が親としての役割に自信を取り戻せるように、食事や睡眠のパターン、排泄などの具体的な援助から始めるのがよい、と私は考えるようになった。こういった事柄に成功すると、親は子どものほかの側面にも興味をもち、探求していこうとしはじめる。そういったなかで自然に、世代間の問題や、自分たち自身の親との関係と自分たちの養育態度の間につながりを見いだしていく親もいる。〜

〜障害や困難を抱える子どもがいて、医学的・心理学的介入を経験すると、親はかなりのストレスにさらされるものである。そしてそれがどのような経験であったかにかかわらず、専門家に対しては、批判的で被害的であるように見受けられることがよくある。とても強い不安を抱いていたり、、絶望していたり、敵対的であったりすると、親は、このような感情を言葉を通してではなく、しばしば投影を通じて伝えてくる。こうして投影された不安や敵意、絶望に向き合うと、我々は、一方では冷静な思考を保ちながらも、もう一方では性急な判断を下したくなる気持ちが起こってくる。そして、これを何とか避けようとする気持ち圧倒されてしまいそうな、非常に困難な体験をすることがある。たとえば、家族の中の、誰のどのような行為が、誰のどのような状態の原因となっているか、などという結論めいたことに飛びつきたくなるのである。〜

〜また、ティシュラー(Tischler,S.)は、1970年代の著書の中で、カナーが“冷蔵庫のような母親”と言ったことに由来するような、親への批判的見解に強く反対している。彼はそこで、母親や両親を単純に非難することは不可能であるとし、より微妙で複雑なモデルを提供している。彼は、病因論の問題の探求を困難にした責任の一端は、我々専門家自身にもあると述べている。専門家たちは、研究や治癒に関する自分たち自身の先入観に気づかず、母親には子どもの正常なニーズに応えられない責任があると信じていたのだ、と。彼はまた、専門家が自分たち自身の情緒的問題を常に認識することができていないという点についても強調している。たとえば、苦しんでいる子どもやその両親への過剰な同一化から、偏った同情や非難、あるいはその両方が喚起されていることに気づけないことがあるかもしれない。このような苦悩に対する過剰な敏感さによって、専門家としての判断が曇ったり、行動化が生じたりする場合があると彼は考える。そして、患者の病理と我々自身の病理を混同しないように、また、特に基本的データーの収集を急ぎすぎないようにするためには、まず、我々自身が自分を理解することが大切だと、彼は強調するのである。
 ティシュラーの意見は、原因を追究し、厳密に診断しようとする者、最良の治療を提供しようと努力する者や、また本章に関して言えば、普通とは違った(atypical)子どもを育てるという難しい仕事を担う親を、より効果的に援助しようと努力する者にとって、非常に重要である。この文脈に沿って考えると、専門家は自分自身の先入観や臨床的野心、恐れや幻想を意識化し、正確に把握することが必要なのだと私は思う。そうすれば、これまでにすでに深く傷ついてきた親を理解し、支えるという我々の目的が妨げられることを最小限にとどめることができると考えられるからである。このような受け手としての柔軟性の大切さは、専門家相互のサポートや、この仕事をしていこうとする者に対するトレーニングの必要性も意味する。〜

〜我々が出会うまでに、両親はすでにその子どもとの大変な生活を長期間過ごしてきているのである。私は、ティシュラーの視点に賛同するし、彼が描写するような、自閉症の子どもがいる家族の鮮明な例にも多く出会ってきた。変化や違いに対して自閉症の子どもが抱く恐怖は、その親の恐怖にもなりうるだろうし、あるいはまた親がすでに抱いていた恐怖の反映かもしれない。たとえば、ある親は、子どもと同じように頑なに、現状に疑問を抱くことなく、毎日の決まった生活に適応しようとするかもしれない。また、その決まりが崩れることで、子どもがどのように反応するだろうかという恐怖から、子どものいかなる気持ちの動揺をも避けようとするかもしれない。こうして家族全体が、あらゆる自発性を失くすという代価を払って、予測可能なことや毎日の決まった日課にしがみつくというシステムの中に組み込まれてしまっているかもしれない。このような状況で我々に助けを求めてくる親は、わずかでも子どもが変化するのではないかという希望をもっているのかもしれないが、また一方では、発達過程を時間をかけて見ていくことはせずに、即効性で奇跡的な“治療”を望んでいるのかもしれない。〜