うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ストレッチと、【治療者は、現在の状況で自分が子どもにとっての母親の役割をとってしまうわけではないことを明確に伝える。】


今日は、受診など、用事がない休日だったので、大好きな喫茶店に行って来ました。
自分の作品のイメージが膨らむので好きと言うのもありますが、いつ行っても、ノラ・ジョーンズがかかっているので、そちらの理由でも大好きです(笑)

 昼過ぎに、書類の不備があったと、会計担当の職員さんから電話があったので、帰宅前に事務所に寄って直してきましたが、彦坂先生のストレッチの日でしたので、自分も今日は真剣に受けて来ました!


 写真は、なんと!ショートで来ている、まーちゃんでした!
まーちゃんは、腰が悪いので参加できませんが、おっちゃんの携帯で写真を撮るって言ってくれ、上手に撮ってくれました!
 ただ、他の人には、名前で写すよって合図しているのに、おっちゃんだけには、ドジ!って(笑)
写真だけでなく、笑いのツボも上手くとってました(笑)ストレッチが終わっても中々笑いが止まらず、顔中涙だらけになっていました(笑)
 ゆうちゃんやまりちゃんの常連組さんは、次の姿勢が分かっていて、すっとその形になっていましたし、大分先生の見本に近づいてきているように思われました。継続は力なりですね!


 今日も早く起きて(単にジジイw)親分の迎え時間まで、うたたね横のファミマで、第11章を読み返していました。その第11章の終わりの方の箇所です。明日にはこの本を読み終えたいと思っています。後、12章だけですが....。

 下記は、本当に大事な事だと思われます。

『治療者の役割と親の役割を明確に分け説明することは役立つ。治療者は、現在の状況で自分が子どもにとっての母親の役割をとってしまうわけではないことを明確に伝える。治療者は、自分との関係で子どもが乳児的な状態を再び生きるように援助することになるが、それは子どもの現実の母親との現在の関係の改善を可能にするためであると説明する。親の役割は、子どもをしっかりと包容し、子どもが自分の方から親に近づく動きをしはじめたときにそれに応えることをいとわないことで治療に協力することである。』



 現場では、まともに投影や陰性転移を受けないようにしないといけませんね....。
受けてしまった時には、速やかに他の職員達と情報の共有するべきですね!


『ここまで見てきたように、このような子どもは、無反応によって養育者に暴力的な感情を引き起こすことで、また世話を拒絶することで、養育者の自信をくじいていく。このような子どもの親(特に母親)が援助機関にやってくるとき、自分の母親としての能力に疑念をもっており、自分に言われたことに容易に傷つくのは驚くに値しない。特に、自分たちが「悪い」母親であるとか、母親として十分ではなかったことを暗に示唆された場合はそうである。親の中には、心理療法家に傷つけられる経験をしたために、このようなかたちの治療を苦々しく思い批判的な人もいる(Rimland,1964,p.65.参照)。』





第11章 心理療法のための設定
親面接
 心理療法家が行動療法家から学ぶことのできる重要な点は、親は、子どものパーソナリティの中で使われなくなり衰弱してしまっている部分を再生する仕事を共に行っている共同治療者であるべきであるということである。子どもが難しい時期を経ているときや親自身自分が子どものときに、受けたかったような援助を自分ではなく子どもが受けていると感じるときに、親は別の気持ちをもつかもしれないとしても、自分の子どものために援助をわざわざ求めに来ている親は喜んで協力してくれるであろう。
 子どもを個人開業の設定の中で見ている場合での私自身の綾面接の仕事の経験からすると、治療者の役割と親の役割を明確に分け説明することは役立つ。治療者は、現在の状況で自分が子どもにとっての母親の役割をとってしまうわけではないことを明確に伝える。治療者は、自分との関係で子どもが乳児的な状態を再び生きるように援助することになるが、それは子どもの現実の母親との現在の関係の改善を可能にするためであると説明する。親の役割は、子どもをしっかりと包容し、子どもが自分の方から親に近づく動きをしはじめたときにそれに応えることをいとわないことで治療に協力することである。子どものために治療を求めに来た親は、喜んで協力してくれるであろう。また、多くの親は最初子どもとの関係で自分が治療者の役割をとりたいと感じるものであるが、それは不適切であると理解しはじめる。親は次第に治療者の役割は非常に限られたものであるし、あまり甲斐がないわりに骨の折れるものであることに気づくようになる。親は、ここまで述べてきたような治療者として機能するために必要な条件を有していないことを悟る。親の仕事は、もっとはるかに満足のいくものであるし、拡がりのあるものでもある。子どもが治療中であったある母親が私に電話をしてきて、「これは先生の管轄だと思うわ」と言ったものであった。それぞれの役割をこのように明確にすることで、治療者と親とのコミュニケーションのチャンネルを比較的明確にしておくことができると私には思われる。私の経験では、治療者と親が、過度に「互いの領分を侵すこと」はなかった。
 ここまで見てきたように、このような子どもは、無反応によって養育者に暴力的な感情を引き起こすことで、また世話を拒絶することで、養育者の自信をくじいていく。このような子どもの親(特に母親)が援助機関にやってくるとき、自分の母親としての能力に疑念をもっており、自分に言われたことに容易に傷つくのは驚くに値しない。特に、自分たちが「悪い」母親であるとか、母親として十分ではなかったことを暗に示唆された場合はそうである。親の中には、心理療法家に傷つけられる経験をしたために、このようなかたちの治療を苦々しく思い批判的な人もいる(Rimland,1964,p.65.参照)。
 私自身の経験では、このような子どもの母親は、母親であることに自信がなさすぎたり、混乱していたり、ごちゃごちゃになっていたり、悲しい思いをしていたりするのである。母親たちの多くは子どもによってパニック状態になっているように見えるが、彼女たちは皆、思いやりのある人たちであり、中には自分が母親であることに伴う責任の重さに圧倒されている人もいる。母親は、自分がうまくできなかったと感じていることを治療者が子どもにできるように見えるとき、治療者に得る程度羨望を感じるのも無理もばいことである。しかし、自分の子どもが回復し協力的になることの喜びが、いつもこれに勝るものである。
 親とクリニックの専門家は、献身的な努力を必要とする困難な企てに従事している。クリニックの心理療法家が親の自信をくじくのは治療的に望ましくない。同様に、親が心理療法家をけなすのも、治療が協同の企てであることからして望ましくない。このような子ども、そして世話をする大人たちは、通常の経験を超えた激しい協働状態に耐えなければならないのである。子どもと関わる大人たちは、子どもがこのような激しい感情を生きぬく間、手をつなぎ合ってその子どもを取り囲み、互いに助け合う必要がある。
 とりわけ父親が、しばしば母親が非常に必要としているサポートを与えることができる。父親がとても協力的である事例は、それに充分報いる結果を生み出してきている。父親のいない母子家庭の場合、子どもは自閉症児のための施設に預け週末は家庭で過ごすかたちが一番よかったように思われる。ある事例の場合、母子は小児科病棟の母子ユニットに共に住みこんだ後に、別の小さな子どものいる、ある家庭のサポートを受けながらその家族と一緒に住むようになった(とても人情味があるとともに理解のある小児科医が、このような普通内容な援助を可能にした)。どんな事例においても、熟練した精神科ソーシャルワーカー精神科医からの援助には、計り知れない価値がある。