うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

シデコブシと、【治療者の油断のない不断の注意の中に抱えられているという目に見えない重要な側面があってはじめて、治療の設定は包容可能なものとなる。】


 朝に事務所に寄った帰りに、シデコブシを見て来ました。
桜が中々咲かないので、安心していたら、満開?少し終わりかけ?でした。
 今年も見逃すところでした(笑)
携帯でいくつか写真を撮ったので、時間が許せば作品にしたいと思っています。


 タスティンは、本当に沢山の学びを頂き、アップしきれないくらいです。
いきなり第11章になってしまっていますが、きりがないので、後、2〜3回くらいで止めようと(笑)勝手に決めました。読み終えたら、うたたねに持って行きますので、是非お読み下さい。
 後、第12章だけですが、第11章も、第7章と同じように何回も読み返しています(笑)

 下記は支援する上でも、基本的な姿勢と思われますが、中々出来ていません.....。


『これらに加え、治療者の油断のない不断の注意の中に抱えられているという目に見えない重要な側面があってはじめて、治療の設定は包容可能なものとなる治療者は、部屋を出て行ったり、電話を出たり、飲み食いしたりが突然動いたりはしない。設定をもう一つの目に見えない側面は、簡潔な解釈とコメントが治療の最初から用いられるということである。注意を向け、解釈をする治療者の価値の一つは、子どもが耳を傾けかつ話をする対象を次第に体験していくことである。子どもが話しはじめるのに、耳を傾けることが最も重要であるものの、これら二つの活動はどちらも役立つ。』


 下記は、重度の方々を見させて頂いていて思うところがあります。
表出の言語がなくても、支援者の言っていることを十分理解されている方が、思ったよりおられます。それに気づく職員が少ないというのも、スーパーバイザー的な方々の資質にも問題があるように思われます。

『例えば、リムランド(Rimland,1964,p.15)は、言葉を話せないある自閉症児がプラムの皮が咽頭?引っかかってパニックになったとき「取ってちょうだい」とあえぎながら言ったことを引用している。』


 下記も、重度の方を支援させて頂くときに、反復恐怖などをワークスルーする時には、反復した時に安心感を何度も与えないといけない(ワークスルーできない)ことと同じ意味合いだと、自分は解釈しました。
 こちらも現場では大事なことですね。当たり前といえば当たり前ですが、その当たり前が中々できていないのですね......。

『同じ内容のことをまったく同じ言い方か、あるいは若干異なった言い方で何度も繰り返すことを恐れてはいけない。』



第11章 心理療法のための設定
 精神病の子どもにとって第一に、そして最も切迫して必要なことは、子どもの環境設定が、すべてをバラバラにしてしまう恐れのある爆発的な暴力を担うことができ、それを抱っこし包容しうると感じることである。あらゆる方法の治療は、このような子どもたちは根本的に恐怖に圧倒されているということを考慮に入れる必要がある。彼らの体は細胞の隅々に至るまで潜在的にひりひりさせる刺激物が触れたかのようである。〜


治療の設定
 このタイプの心理療法においては、子どもに(毎日会う場合は)曜日ごとに同じ時間、あるいは(週毎に会う場合は)週ごとに同じ時間に会う。もし子どもに週一回しか会わないならば!教師が予測可能で支持的な設定を与える特殊学級に子どもが毎日通うことが役立つ。治療セッションの
間、子どもは常に同じ部屋にとどまる。子どもがクリニックの中をうろうろすることは許容しない。部屋の家具などの配置はセッションごとに変わらないようにする。子どもは自分自身のおもちゃの引き出しをもち、それは子どもが出て行った後鍵がかけられる。おもちゃは、簡素なものが選ばれる。例えば。野生動物。家畜、家族を表す人形、車、木の橋、絵の具、クレヨンなどである。部屋には水道の蛇口もある。
 これらに加え、治療者の油断のない不断の注意の中に抱えられているという目に見えない重要な側面があってはじめて、治療の設定は包容可能なものとなる。治療者は、部屋を出て行ったり、電話を出たり、飲み食いしたりが突然動いたりはしない。設定をもう一つの目に見えない側面は、簡潔な解釈とコメントが治療の最初から用いられるということである。注意を向け、解釈をする治療者の価値の一つは、子どもが耳を傾けかつ話をする対象を次第に体験していくことである。子どもが話しはじめるのに、耳を傾けることが最も重要であるものの、これら二つの活動はどちらも役立つ。



解釈
 解釈には他の価値がある。精神病の子どもは、さまざまな体験を互いにバラバラなままにしている。彼らは、それらをつなげ解釈することができないように思われる。解釈過程は、このような子どもに欠けていることをまさしく供給するようです。治療の最初にこのような子どもの言葉の理解はほとんどないという理由で、これに反対する意見があるかもしれない。私の経験では、子どもの中に部分的な気づきがあり、それによって子どもは私たちが気づいて一回よりもはるかに多くの言葉と理解する。例えば、リムランド(Rimland,1964,p.15)は、言葉を話せないある自閉症児がプラムの皮が咽頭に引っかかってパニックになったとき「取ってちょうだい」とあえぎながら言ったことを引用している。また、解釈する際には、言葉を注意深く選ぶことが肝要である。言葉を話さない子どもには親からその子どもがわかると思われるこれらを間入れていく。このような子どもには、解釈は短く的確にすること、大切であり、同じ内容のことをまったく同じ言い方か、あるいは若干異なった言い方で何度も繰り返すことを恐れてはいけない。
 このアプローチした治療的側面の一つは、子どもにとって、誰かが自分の心に触れようとしていること、そして自分のほうが反応しないことで生じる欲求不満にその誰かが耐えることができ、それにくじけないで積極的に関わろうとし続けていることを気づかされることのようである。しばしば自閉症児にとって、身体接触よりも治療者からこのように言語的なかたちで積極的に関わろうとされるほうが耐えやすい。私自身、心理療法の中では、特に治療の初期段階では身体接触や身振りでさえなるべく控えるようになった。というのは、それらは子どもを興奮させてしまい、凍りつき身動きがとれなくさせるか、逆に多動にしてしまう。話すことはこのような効果をもたないようである。〜


〜治療者は、「私の手がまるであなたの体の一部であるかのように私の手をあなたに貸すよりも、私はあなたに私の『考え(thinking )』を貸してあげましょう。そうすればあなたが、自分の体と私の体とを段々区別できるのに役立つでしょう」と言っているかのように振る舞う。原始的な身体状態の解釈をするには、自分が冷静な考えを失うことなく他者の身体状態に入り込むことが必要である。原始的な体験を想像力豊かに再構成できる力は、自閉症児の心理療法において重要である。〜


〜このような子どもに解釈をすることへの反対意見は、治療の初期の段階では私たちが扱っているのは非言語的で行動化の水準を扱っており、そのような水準では行動が言葉よりも雄弁であるというものかもしれない。これはそのとおりであるが、解釈することそのものが一つの行動である。解釈することを通じて、話すことが普通の人間の間で一般に受け入れられているコミュニケーションの様式であることが確立される。思考の伝播やテレパシーは、たとえそのような過程が可能であるとしても、通常のコミュニケーションのやり方ではない。精神病の子どもの治療においては、治療者は、自分がそのようなやり方を用いていると感じていることに慎重になるべきである。このような子どもはすでに十分尋常でないところがあるのである。