うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中!と【治療的な含み】(自閉症スペクトラムの臨床より)


今日は、蔵王山に行ったり、伊良湖に行ったり、池ノ原でお薄を頂いたり盛りだくさんでした!  
蔵王山では、展望台に上がり景色を眺めたり、地元の方は地図を見て家を探したりされていました。


 伊良湖は波が高く

 近寄ると危険なので少しだけ散歩して帰って来ました。
ももちゃんは、喜び過ぎてつっこんでいこうとされましたが(笑)止めました!
なぜか?強い物に、引き込まれそうになりますね。


 伊良湖に行く途中、すろーじゃむでトイレ休憩。
みなさん(5名)いかれたので、その間に種壺に投げ入れて来ました(笑)

 イチゴの葉が赤くなっているのが沢山ありました。雪で焼けたのか?窒素分が少ないのか?2月に入ったら肥料をあげようと思います。


 池ノ原組はお薄と散歩でした。
お皿がほんのり暖かくて、外から来た者には嬉しかったです。
お茶の心をみなさんで習いたいですね!

 おっちゃんは、梅の筒茶碗。
梅の蕾も大分膨らんでました!


 かおちゃんは、本当に慣れて飲んでいる姿に風格すら感じました。



今日は夜勤でしたが、慣れない職員さんが多かったのでお昼前から現場に入っていました。

一時帰宅したときに読んだ箇所のアップです。


【私は、自分がステファンに提供したと思うのは、彼の心的外傷の特定の細部を再演する機会ではなく、攻撃性。攻撃的な感情、そして怒りを安全に私たちの関係性に持ち込み、遊びの中でそれを用いたりそれになったりすることで、探索することができるという経験だったと考えている。】



【私たちの作業で治療的だったものをこのように概念化するのは、『国際精神分析研究誌(International Journal of Psychoanalysis )』での最近の招待論説(Guest Editorial )でのフォナギー(Fonagy)の見解とガッチするだろう。彼は記憶の顕在的な(explicit )回復の重要性に異を唱えました治療的行為を、他者と共にいる新しいやり方、つまり手続き記憶の性質の変化の獲得にあるものとして概念化する方をより好ましく考えた。「転移の中での集中的な作業は、相対的には表層的な自伝的記憶の変化という目標よりむしろ、潜在的な(implicit)記憶を修正するという非-顕在的な(non-explicit )目標を持っている……精神分析は語りの創造以上のものである。つまり、それは他者と共に自己を経験する新しいやり方の積極的な構築である(1999,p.218)。」ステファンとの作業でも、彼が他者と共にいる自分自身を新しいやり方で経験することを私は「積極的に構築して」いたと信じる。】
 

 実際にステファンの精神分析過程を読まないと分かり辛いですが、サメの指人形で攻撃的な遊びを導入していました。
感情を表出できない統合失調症の患者さんに、怒りを感じてもらうセラピーがあると本で読みましたが、それの子ども版というところでしょうか?

 明日から第6章に入りますが、明けに通院介助....。でも看護師さんが一緒に来てくれ、運転もして下さるようなので助かります!





《治療的な含み》
 最後に、ステファンの改善をもたらす上で働いていた要因について考えたいと思う。私は、因果関係を明確にすることが難しいことも、両親による世話と特別支援の教師と言語療法士からの援助によってももたらされた主要な貢献が 大きいこともわかっている。
 しかしながら、彼の心理療法に関しては私が描写してきた作業のように、遊び心(playful)をもった能動的がやり方が(少なくともこのサブグループの子どもたちにとっては)彼らの言語と想像的な遊びの発達を促進する上で役に立つようであることを指摘したい。
 私はまた、こうしたより能動的な役割には攻撃的なテーマを率先して遊びに導入することが含まれていることがとりわけ重要だったことを示唆したい。
 こうする際に、私は、自分がステファンに提供したと思うのは、彼の心的外傷の特定の細部を再演する機会ではなく、攻撃性。攻撃的な感情、そして怒りを安全に私たちの関係性に持ち込み、遊びの中でそれを用いたりそれになったりすることで、探索することができるという経験だったと考えている。これは、そうした感情が正確に誰に帰属するか、つまりそれらが誰の感情であるかが、それか存在するという事実に比べれば、この段階ではあまり問題にならなかったということも意味していた。
 私たちの作業で治療的だったものをこのように概念化するのは、『国際精神分析研究誌(International Journal of Psychoanalysis )』での最近の招待論説(Guest Editorial )でのフォナギー(Fonagy)の見解とガッチするだろう。彼は記憶の顕在的な(explicit )回復の重要性に異を唱えました治療的行為を、他者と共にいる新しいやり方、つまり手続き記憶の性質の変化の獲得にあるものとして概念化する方をより好ましく考えた。「転移の中での集中的な作業は、相対的には表層的な自伝的記憶の変化という目標よりむしろ、潜在的な(implicit)記憶を修正するという非-顕在的な(non-explicit )目標を持っている……精神分析は語りの創造以上のものである。つまり、それは他者と共に自己を経験する新しいやり方の積極的な構築である(1999,p.218)。」ステファンとの作業でも、彼が他者と共にいる自分自身を新しいやり方で経験することを私は「積極的に構築して」いたと信じる。
 このアプローチの鍵となる特徴は、このように開始された遊びの持つ互恵的な性質である。ここで、ショアが言及した「関わりによる修復」(上述論文)の重要性に戻る。彼はこのような視点が持つ治療的な含みもまた強調している。「治療関係に内在する、関わりによる調整が『成長促進的環境』として機能し、特に、右眼窩前頭系の経験-依存的な成熟に役に立つ(2001,p.245)。」
実際、私の積極的な励ましにより、ステファンは、指人形どうしの戦いの遊びに非常によく反応し、そこには真の関わりあいがあった。彼がこのようによく反応したのはおおむね、病気になる以前に彼が肯定的な経験をもっていたことによるものなのは疑いがなかろう。
 要するに、私は、攻撃性の問題に相互性と遊べる能力をもって取り組んだことがきわめて治療的だったと考える。ステファンと私がこうした仕方で遊んでいる時、私たちは共に楽しんでいた。私はこの楽しみという要素を最小評価するべきではないと思う。