うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

グループホーム相談会と、『第3章 波長を見つけ出すこと――自閉症を持つ子どもとコミュニケイトする道具』


今日は、親分が中心でしたが名古屋でグループホームの相談会に行って来ました。
スプリンクラーや自動火災報知機は、うたたねでは支援区分が4以上の方が8割を占めても、声掛けで逃げる事ができる方たちなら、必要ないとのことでした。
 設計士さんも、防災関係の施工をされている会社に行ってきちんと話をしてくれ、必要ないとの結論が出ていましたので、整合性があります。ただ、担当者が変わったりした時にめんどくさい(笑)(大変なので)配線だけでもこの際して頂こうということになりました。
 うたたねは、きちんとした設計士さん(病院などの設計をされている)に改築をお願いしているので、基準法にも消防法にもきちんと適応している上に、アフターもきちんと見て頂いているので、心強いです。
 常勤換算もどこを見られても大丈夫なように毎月やらせて頂いていますが、親分は他人から言われてその辺の書類の重要性が理解できたようで、(6年目で...)少し疲れました(笑)

 制度は、3年に一回大幅に変わるので、まめに厚労省のサイトなどを見ています。
 悪い方に変わるだけでなく、良い方にも変わりそうなものもあるので、しっかり現場の声が伝わっているんだと思っています。
 使っていないサービスは省かれるとか、少しずつ変化は出て来ていますね。予算も腐るほどもないですものね....。

 親分は出不精ですが、真剣に福祉を考えている方々と話すことで成長出来る事感じてくれたようです(笑)
 今年は色んな場所に沢山行って頂きます。親分が施設で働いていた時に、なんで勉強しないのか?と親分に聞いたら、仲間外れになるからと.....。その時は分かりませんでしたが、今なら分かります(笑)
 でも、うちはうたたねなんで、勉強して頂きます(笑)


 そんな中でも何とか本を読ませて頂きました。本当に何とかですが(笑)
次回に核心に迫る?箇所になりますが、美しい文章だったのでアップさせていただきました(笑)
 青字の部分は、何度も読み返してしまいましたが......。
 ここしばらくは、出版年が新しい本を選んで読ませて頂いていて、この本は2016年10月の出版です。
 

《第3章 波長を見つけ出すこと――自閉症を持つ子どもとコミュニケイトする道具》 アン・アルヴァレズ

 傾聴は、複雑な技である。数年前、タイムズ誌(The Times )にクロウタドリとその歌について投書でのやりとりがあった。以下は、そのなかの、2000年6月14日の投書である。


編集長殿

拝啓
 クロウタドリは、5月にはとても楽しそうにイ長調で歌います。6月には、満足げにヘ長調で歌います。小生は、これを言うのに68年かかりましたが、ベートーベンの交響曲第7番と第6番がこの理論を支持しています。
敬具
D.F.クラーク


この投書者は耳がよいのは明らかであるし、傾聴するのが好きなようである。
次に上げるのは、若干異なる傾聴への態度である。これは、フェルナンド・ペソア(Fernando Pessoa 1981)によるものである。


歌うのをやめろ!
やめてくれ
歌と一緒にやって来る
他の声が聞こえてくる(ように思える)から
魅力の割れ目から
それはやさしく力強い
君の歌がもたらす
私たちのところまで



この詩の最終連は以下のようである。



歌はもういい!
今は沈黙が必要なのだ
ぐっすり眠るために
聞こえてきた声を思い出すために
理解できなかった声を
もはや私が聞くこともできなくなった声を



 詩人は傾聴するために必要なのは歌ではなく沈黙だと主張していることに注意を払っていただきたい。自閉症を持つ子どもたちは、傾聴することができないことがよく知られている。実際、彼らはしばしば耳が聞こえないと思われる。自閉症の三つ組の症状の中には、社会的関係性や想像力の使用の障害とともに、コミュニケーションと言語発達の障害が含まれている。症状を特定することは大切であるが、あまりに一者心理学にのみ依拠する疾病分類、すなわち子どもの自己の属性のみを取り扱う疾病分類学は、バランスを欠いた記述と言わざるをえないだろう。私の考えでは、自閉症をより十全に心理学的に記述するには二者心理学、最終的には三者心理学が必要なのである。このようなアプローチには、個人内部にある関係性の研究を含んでいるだろう。二者心理学を含む心のモデルにおいては、心は特定の性質や方向性や欠損を持つ自己だけでなく、「内的対象」(Klein. 1959)もしくは「表象モデル」(Bowldy. 1988)と呼ばれるものとの関係をそのなかに持っており、こうした「内的対象」や「表象モデル」も欠損を持っているかもしれないと想定される。自閉症のより個人的でかつ個人内部的な理論には、自己は、内的な表象や人物イメージや対象と力動的な情緒関係にあるという含みを持っている。そのような関係は歪曲されたり、欠陥があったり、奇妙であったりするかもしれないが、自己はそうした関係を常に持っていると想定される。(ここには病因論的含みはまったくなく、問題にしているのは子どもが心の中に持つ人物イメージや表象の世界なのである。多くの精神分析家は、「表象」という言葉よりも「内的対象」という言葉を用いる。というのは、前者は外的人物をそのまま複製したものであると考えられる場合があるのに対して、後者にはそのような含みはない。内的対象は、内的要因と外的要因の混合物であると考えられている。)自閉症を持つ子どもが私たちを家具のように扱うのは、その子どもが私たちを家具のように見ているだけでなく、私たちがまるで家具であるかのように感じているからかもしれない。子どもが私たちに耳を傾けないのは、その子どもに耳を傾ける習慣がないのが一因かもしれないが、私たちの話が面白くないか侵入的でペソアの言う沈黙がなさ過ぎると感じているからかもしれない。その場合、私たちはどうすれば歌わずにいながらも聞いてもらうことが可能になるだろうか。さらに子どもが私たちと話さないのは、私たちを話しかける価値のないものと考えているか、あるいは私たちの聞く力が限られていると考えているからかもしれない。あるいは、子どもたちは、私たちが子どもから言葉を引き出して何らかの恐ろしいやり方で自分たちのものにしてしまおうとしていると感じているからかもしれない。こうした子どもの「心の理論」(Leslie.1987)においては、心は基本的に思慮深くないものであると想定されており、これによって、摂取や学習や内在化の過程は大幅に損なわれている可能性がある。 
 しかしながら、症候学や病理学ですべてを語ることができるわけではない。自閉症を持つ個々の人は、非自閉症でない健康な部分をパーソナリティの中に持っており、それが自閉症と絡み合っているのである。ビオンは、精神病患者の精神分析治療において、「パーソナリティのなかにある非精神病的部分」と接触を持つことの大切さについて述べている。(Bion. 1957)最近自閉症における「共有された機能」(Hobson & Lee,1999)に関する研究も、ますます増えてきている。自閉症は一見静的なようにみえるが、実のところかなり変動しうる部分があるのである。こうした子どもは、たとえば人や新しいおもちゃを興味深そうに一瞬見たのちにすぐに古い儀式的行動に戻るかも知れない。こうした一瞥の性質に注意を払っていくと、それは、そこから関わりを拡充し構築する手がかりであったり、かすかな信号であったりすることが見えてくる場合があるのである。その際大切なのは、このようなより定型発達に近いようにみえる自己の部分が機能しているレベルを査定することである。その子どもの暦年齢は5歳や10歳であるかもしれないが、人と関わっている対象希求的な健康な部分の機能状態は生後10カ月であったり、あるいは生後3週であるかもしれない。そこにも早期の前概念作用(preconception)(Bion,1962)をやはり見て取れることができるかもしれないが、それは、「心の理論」(Leslie,1987)や人の感覚(Hobson,1993)の前概念作用というよりも、心の理論の萌芽や人の感覚の萌芽の前概念作用と言うべきものかもしれない。自閉症を持つ子どもの治療が依拠するのは、こうした部分であろう。そしてそれは、その子どもができる情緒的コミュニケーションのレベルに正確に合わせていく必要があるだろう。