うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

弁天島浜小屋マルシェと『心因性自閉症の心理療法』(自閉症スペクチラムの臨床より)


 浜松のハゼドンこと、水島さんから弁天島浜小屋マルシェのチラシが送られてきました!
牡蠣の生食はノロが怖いので駄目ですが、ねぎまうなぎは食べてみたい気がしますね!
 シュークリームは大好物ですが、どんなシュークリームでしょうか?うなぎいもが入っていたりして!
うなぎいもプリンも大好物です。(高いので年に数回くらいしか食べれませんが......)

 食べ物の話ばかりですね(笑)小腹が減ってきました....。みかんでも食べましょう。


 帰宅が遅かったので、ねこさんが掃き出し窓から睨んでいました(笑)
晩御飯は、サークルKでおにぎりとサラダとフライドチキンを駐車場で頂いてきましたので、チキンの臭いがしていたのでしょうか?(笑)
 

 今日は、日中一時で入っていて、読書する間が無かったので、読みながら打ち込ませていただきました。
これから自閉症の奥に入っていけるのでしょうか?


第2章 心因性自閉症の生成における重要な要素
おわりに
 表面的な観察では、器質性の自閉性障害も心因性のものも同じにみえる。しかしながら、注意深くみていくと、器質性の自閉症は脳に対する全般的損傷があるのに対し、心因性自閉症は、私たちの現在知りえている限り、心の損傷から主に生じてくるようであるということが明らかになる。私の見解では、心的な損傷は神経生理学者たちが脳の損傷の調査をするのと同じくらい細心の注意を払って調べる必要がある。反応のない母親と反応のない赤ん坊という意味でのおおざっぱなりかいではだめである。心因性自閉症というハンディキャップを抱える子どもたちを援助するには、その性質を詳細に内側から理解する必要がある。こうした研究をするなかで私たちは、自分たちが研究しているのは、知覚の始まりに関わるとともに知覚が阻害され歪められるようになる原始的な情動を研究していることに気づかされる。ジョンが明らかにしたことによって、私たちはこのことについての幾ばくかの洞察を得ることができた。




心因性自閉症心理療法
 心因性自閉症について理解することは簡単でないのは、原始的で、比較的未分化な状態で心の損傷は生じ、そうした損傷は身体的に傷つくこととして経験されるという事実のためである。主体と対象が亜互いにほとんど区別されていないために、損傷は子どもと対象との双方に生じるようである。母親と子どもの両方が、お互いを一緒に抱えてくれる生き生きとした「パパ・ボタン」を失っていると感じている。ジョンという心因性自閉症に苦しむ幼い子どもが、この心の損傷の詳細を示してくれた。こうした子どもはショックのさなかにおり、傷ついていて、弱く、助けがないと感じているという錯覚を自分に与えてくれるようなやり方を発達させてきている。こうした子どもたちは、とても受け身に見えるのだが、小さな暴君である。いわば「大きな顔をする(too big for their boots)」のである。このような子どもたちは、毅然として、それでいて理解のある「コンテインメント」を必要としていて、それは思いやりと常識(common sense)が組み合わさったものである。彼らはこうした大人の対応を歓迎する。というのも、周りの心配する大人たちと同じように、彼ら自身も自分がよい状態にあると思っていないからである。
 ジョンの母親が教えてくれたことから私は、ジョンの母親は、彼を生むとき、自分の一部である美しい赤ん坊を失ってしまったと感じ、麻痺させられてしまったという印象を持った。彼女にとってジョンは、リアルで生き生きとした赤ん坊ではなく、貴重なドレスデン磁器であった。もし彼女が「専門家」から自分の子どもに「進で欲しいと願っている」と言われ、そしてこのことがジョンのトラブルの原因であると言われたなら、彼女をどれだけ傷つけてきたことだろう。そして、それはどれだけ真実からかけ離れていただろう。精神力動論者の中には、自閉症に対するアプローチで重大なミスを犯す人がいる。本稿は、そうした間違った考えを訂正する証拠を提示しようと試みてきた。
 こうした子どもとの心理療法はまた、心因性自閉症を引き起こした原始的感情に触れる試みであった。実際に、こうした子どもたちに起こっていることは、感覚水準での不幸と言えるようなものであるが、過敏であるとともに、早期乳児期の錯覚に支配された状態では、誇張され破局となってしまうようである。そして、このような錯覚に関連した感情は外傷的なものになってしまったのである。ある患者が教えてくれたように、「錯覚だってことはわかっています。けどおそろしいのは本当なんです」。私が見出してきたのは、こうした早期の見たところ破局的な損傷は、治療している障害の性質は何なのか現実的に理解して対処するような心理療法によって癒されうるということである。私はまた、そうして心理療法から集められた洞察は、ある種の神経症の患者たちの治療で出逢う自閉的な障壁に光を投げかけるものでもあることも見出した。